2012年2月24日 (金)

はじめに

Toredo3_3

 東北・関東大地震で犠牲になられた方々のご冥福をお祈りいたしますとともに、被災された皆さんに一日も早く元の生活が戻りますように心からお祈り申し上げます。

 リタイヤを機に書き始めたブログ。昔の思い出話、旅行の思い出、趣味の話などいろいろ書こうと思うのですがなかなか思うように筆が進みません。でもあせらず、細く長く続けていこうと思っています。よろしくお付き合いください。


 写真はスペイン、トレドの街の全景です。箱庭のようにコンパクトで中世をそのまま持ってきたような街並みはさすがに「もしスペインに一日だけしか滞在できないなら迷わずトレドに行け」と言われるだけあると思いました。トレド大聖堂(中央の尖塔)を中心とするこの街は、街全体が世界遺産に指定されています。ルネッサンスはこの街でイスラム民族とヨーロッパ人が力を合わせて育てた学問・美術がイタリアに渡って開花したものだという説が有力のようです。
当時、イスラムの学問、とくに自然科学はヨーロッパをしのぐレベルにあったようです。ローマ数字(Ⅰ、Ⅲ Ⅹ、)よりアラビア数字(1,3,10)がはるかに優れていることからも推し量ることが出来ますね。

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またまた物理学の常識に誤り?

Pear_fujil   以前このブログで「光の速度より速い物質・粒子は存在しない」という相対性原理の基本的な原則が誤りである可能性が出てきたことを書きました。その後もこの研究は進んでいるようですがこの測定が誤りではないか?というニュースが出てきています。さてどうなることでしょうか。

 我々が学校で習った「物理」(正確には「ニュートン力学」)が20世紀初めに厳密には正しくないことが明らかになり、それに代わる新たな正しい理論としてアインシュタインの「相対性理論」が出現しました。
「相対性理論」が宇宙の様な巨大な世界で重要になる理論であるのに対して電子や素粒子といった超ミクロの世界を解明する新しい理論として「量子(りょうし)論」もこれとほぼ同時期に誕生しました。

 「量子論」はアインシュタインのような一人の学者が発見したものではなくボーア、ハイゼンベルグ、シュレーディンガーなどの学者たちによって確立された学問です。「相対性理論」より地味であまり知られていませんがそれよりもっと我々の生活に関係が深く、「量子論」の進歩なしではパソコンやテレビ、携帯電話など我々が恩恵にあずかっている便利なものは今のように発達してこなかったと言っても過言ではありません。

 相対性理論は「光に近い速度で走っていると時間の進み方が遅くなったり、長さが縮んだり、重さが重くなったりする」といった、事実ではありますが摩訶不思議な理論ですが、「量子論」ではさらに常識では考えられないようないろいろな現象が明らかにされています。学生時代講義を聴きました残念ながら私には難解すぎて正しく理解できるものではありませんでした。今頃になって量子論の超入門書(「『量子論』を楽しむ本」佐藤勝彦著PHP文庫など)を読んで何とか少しでも理解しようとするのですがなかなか思うようにいきません。

 「量子論」の重要な原理にハイゼンベルグが発見した「不確定性原理」というものがあります。 「超ミクロの世界では物体を観察する(見る)という行動そのものが物体の状態に影響を与えてしまい、物の位置と状態を正確に測定するには限界(数値で表されています)がある」という原理です。
 一世紀近く正しいと考えられてきたこの原理が日本人の学者らによって修正されようとしているのです。
うまくいけばこの新しい理論を使って新しい技術、例えばスーパーコンピューターをはるかに上回る性能を持つ「量子コンピューター」の道が開けるかもしれないと期待されています。

 20世紀初頭に偶然、ほとんど時を同じくして出現した「相対性理論」と「量子論」、その両者に今またほとんど時を同じくして修正が加えられる可能性が出てきたというのは不思議な気がします。その成果に大きな期待をしたいと思っています。


 今回の写真は私の撮ったものではなく、親しい友人からお借りしたものです。この方は富士山に大変造詣の深い方で、富士登山はもちろん、新幹線との組み合わせなどいろいろな場面での写真を撮られたり、富士山の清掃活動をされたり、「富士山検定」にチャレンジされたり等々富士山に関するあらゆることをなさっておられます。特にセミプロの腕前の写真は私がいつも楽しみにして見せてもらっています。
 この写真は昨年末の早朝に御殿場市ぐみ沢で撮影された写真とのことです。太陽が富士山頂から昇ったり沈んだりする「ダイヤモンド富士」の写真もいいと思いますが、この写真のような満月との組み合わせを撮った「パール富士」は一段と荘厳な感じがして大好きです。写真を撮るときの苦労話をお聞きするのも楽しみの一つです。

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2012年2月 3日 (金)

ふたたび「昭和史」について

Sapporo     現在は東京都副知事である作家の猪瀬直樹さんの著書『昭和16年夏の敗戦』(中公文庫)は大変興味深い本でした。あの太平洋戦争に突入する半年くらい前に当時の官庁や民間の30歳代の若手精鋭が40名近く集められ、模擬内閣を作って「もしこのまま対米戦争に突入した場合戦争の行方はどの様になるか?」というテーマで徹底討論、シミュレーションをさせられました。当時石油の輸入を主にアメリカに頼って日中戦争を戦っていた日本は世界中の非難を浴び、そのアメリカから石油の禁輸を申し渡されその実施が目前に迫り、追い詰められていました。

 開戦4か月前に出た彼らの結論は「緒戦には勝つだろうけれど間もなく国力の差が明白になり、最終的にはソ連の参戦という形で日本は敗戦するであろう」というものでした。
実際の太平洋戦争はご存知のように彼等の結論とほとんど同じ結果に終わりました。この報告を聞いた当時の近衛内閣の陸軍大臣で日米開戦時の首相になった東条英機は「君たちの結論はあくまで机上の空論だ。日露戦争も勝てると思ってやったのではない。戦争は意外なことで勝負が決するのだ。」と何とも無責任な発言をし、「この結論は決して口外するな」と釘を刺したそうです。腹の立つあきれた話です。

 大手新聞がが先頭に立って戦争機運を盛り上げている中、良識ある若手精鋭たちが冷静に考えれば「アメリカと戦争をして勝てるはずがない」、という結論は至極常識的なものだったのだろうと思います。
最近、NHKでは「さかのぼり日本史」という番組が放映されています。ある歴史上の事柄をとらえて、それがなぜそのようになったかの要因を時代をさかのぼりながら検証していこうという番組です。

 軍部のトップが握っていて総理大臣でも口を出せないことになっている「統帥権(とうすいけん)」(軍隊を動かす権利)という『化け物』の存在。さらにさかのぼると陸海軍大臣は現役の武官でないといけないと決めた明治時代の制度が昭和11年に軍部の圧力で復活し、これ以降軍部の意に沿わない内閣には実質上軍部が拒否権を持つようになり、軍部の独裁を許すことになったのです。
戦争中も一貫して勇気をもって軍部のやり方を批判し続けたジャーナリストは後に首相となりながら健康上の問題で十分に思いを遂げられなかった石橋湛山などごくわずかの人たちだけでした。

 「さかのぼり日本史」のこの手法、学校の歴史の教え方にも取り入れてはいかがかと思います。そうすれば卑弥呼の時代に時間をかけて近代史まで到達しないうちに時間切れ、ということにはならないように思うのですが。


 写真は雪の中の旧北海道庁の赤れんが庁舎です。今から120年以上前の明治21年に創建されたものです。
札幌は私の大好きな街の一つです。でも正直なところ冬の札幌は一二度しか訪れたことがありません。この時も雪は残っていましたが気温は比較的高くて「ホワイトイルミネーション」を楽しむことが出来ました。
札幌は街が美しい上に食べ物が大変おいしくて何度訪れても飽きないいい街だと思います。

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2011年11月 9日 (水)

ダーウィンの「進化論」について

Prague    ダーウィンがビーグル号という船に乗って世界一周の旅の途中立ち寄ったガラパゴス島でゾウガメの変種などを観察し、「すべての生物は共通の祖先から長い時間をかけて現在のような多種の生物に進化した」という「進化論」を確立したことはよく知られていますし、ほとんどの日本人はそれを事実として受け入れています。

  でも驚いたことにアメリカ人の約4割は進化論を未だに信じていないのです。これは「神が神の姿に似せて人類を創造した」とするキリスト教の「創造説」の影響によるものと言われています。イスラムの諸国はもっと多くの人が創造説を信じ、進化論を信じていないそうです。でも同じくキリスト教徒の多いヨーロッパでは9割近い人が進化論を信じているそうでちょっと不思議な気もします。ダーウィンもこの進化論を世の中に発表するのを20年もの間ためらっていたということです。それほど周りの抵抗が強かったということでしょう。

  明治の初め生物学の教授として日本に派遣され大森貝塚の発見者としても有名なウィリアム・モース(余談ですがモールス信号を発明したモールスとモースは読み方が違いますが同じMorseです。もちろん二人は無関係ですが)は日本に来て「進化論」を講義したときアメリカ人と違って学生達が抵抗なく理解したのに大変驚いたそうです。初めは学生がよく理解出来ていないのだと思っていたそうですが実は日本人はその宗教観などから猿や動物たちが自分たちと同じ祖先で繋がっているということが抵抗なく理解できたのです。モースは本当に驚いたそうです。

  独特の長いノーズを持った新幹線N700系のデザインは子供でもよく知っていますね。このデザインは「進化論」をコンピューターソフトに組み入れて初めて生まれた形なのだそうです。進化と突然変異をうまく組み合わせた結果の賜物なのだそうです。面白いですね。

 日本人が進化論に抵抗がなかったということは逆に進化論研究の日本での発展にはマイナスに働き、この分野での研究は世界に遅れを取りました。やはり物事の進歩にはある程度それに対する抵抗、反対の意見といったものが必要なのですね。


  写真は以前ご紹介したプラハの街並みをプラハ城から写したものです。世界遺産の街プラハには尖塔を持った寺院や建物がたくさんあり「百塔の街」と呼ばれています。この写真にもたくさんの塔が写っています。手前に見えるのが日本では「モルダウ川」として有名な「ヴルタヴァ川」で、以前ご紹介したカレル橋を多くの観光客が散策しているのが見えます。
  


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2011年9月30日 (金)

光より速い粒子が存在する?

Sunflower_akeno   「光の速度より速い素粒子が見つかった」という衝撃的なニュースが発表されました。これが事実なら大変なことです。

  私は理科系の人間ですが物理の詳しい理論はわかりません。でも相対性理論、量子論、宇宙といった日頃我々が見聞きしていることとはおよそ違った(同じ次元ですが)異次元の世界のような現象のことを知るのが大好きで入門書を片っ端から読みます。それを知ったからといって何かに役立つわけではありませんがなにか心が豊かになるような気がするからです。

  20世紀前半にアインシュタインが相対性理論を発表し、物理学の世界はそれまで正しいとされてきたニュートン力学を根底から崩しました。でも今も教科書で学生が勉強する物理学はニュートン力学です。これは我々が目にする普通の現象はニュートン力学でもその誤差はほとんど無視出来るほど小さいからです。 一秒間で地球を7回り半も進む光の速度に近い速度で動く物体では我々が知っているニュートン力学は全く通用しません。

  その相対性理論でよく知られているのは「光より速い物体は存在しない」というものと「エネルギーと物の重さには『E(エネルギー)=M(重さ)×C×C(光の速さ)』の関係がある」というものです。ニュートン力学では物質不変の法則、エネルギー保存の法則というのがあってエネルギーと物質は全く別のものと考えられていました。でもアインシュタインはそれがお互いに変換できるものだということを証明したのです。 

  相対性原理の世界で起こる不思議なことでは「光に近い速度で移動すると時間の進み方が遅くなる」とか「光に近い速度で動くものは長さが縮む」とか「光に近い速度で動くものは重さが重くなる」といったものが比較的よく知られています。でも「光の速度に近い速度」と簡単に言っても、あの高速で飛ぶ宇宙ロケットでも光の速度のわずか1万分の1にも達しないのですからとても想像すらできない速度です。

  でも今回のニュートリノの実験結果は大変なことなのです。小柴さんが理論的には既に存在が分かっていたこの極微の粒子をカミオカンデで観測に成功してその存在を証明しノーベル賞を受賞しましたね。このニュートリノを使った実験でごくごくわずかに光より速い速度が観測されたということ(実験した人達も相対性理論を正しいと思っていますからこの発表をするには念には念を入れて確認し随分悩んだことでしょう)、もしこれが事実ならアインシュタインの理論の一角(根底といってもいいかもしれません)が崩れることになるかもしれないのですから。さあ大変です。しばらくはこの世界からは眼が離せなくなりました。

  極微の世界を扱うもう一つの物理学の分野「量子論」、これも難解で理屈はよくわかりませんがとても我々の常識では理解出来ない、相対性理論よりもっと不思議なことがいっぱい起こっています。 でもこの現象があるから我々はIT技術などを通して便利な生活を手に入れているのです。


  写真は八ヶ岳の麓、山梨県北杜市明野(ほくとしあけの)のひまわり畑です。訪れたのが9月の中旬だったのでもう季節が終わっているだろうと思って諦めていましたがまだ少し残っていました。このように群生しているひまわりはいかにも太陽の花といった感じで素晴らしいと思いました。私は八ヶ岳の山々を眺めるのが大好きです。麓の清里の町はかつて若者が大勢集まって賑わいを見せていましたが今は落ち着いた高原のリゾート地として大人の町に変貌しています。新鮮な高原野菜が豊富な素晴らしい所だと思います。

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2011年9月 5日 (月)

ちょっといいおはなし(3)

Ellis_island     9.11テロ事件から早くも10年が経とうとしています。あの事件以来米国を中心に空港でのチェックインの時の検査が格段に強化され厳しくなりました。安全のために仕方がないこととはいえやや面倒に感じる時もあります。でも搭乗客全員に差別なく実施されるこの検査を始めるに当たってある日系アメリカ人の過酷な人生経験が生きていることを知りそれ以来この厳しい検査が苦にならなくなりました。

  あのテロ事件のあった1991年当時の米国の運輸長官は日系アメリカ人のノーマン・ミネタ氏でした。事件発生の報告を聞いて直ちに米国上空を飛行中の全航空機に対して最も近い空港への緊急強制着陸の命令を出したのはノーマン・ミネタ長官でした。ミネタ(峯田)氏は日系二世で、まだ小学生だった太平洋戦争の時に敵国からの移民ということでワイオミング州ハートマウンテンにあった日系アメリカ人強制収容所に連れて行かれ過酷な生活を強いられました。その苦しい経験から人間を人種によって差別してはならないという強い信念を持っていました。

  9.11テロの後アメリカにはアラブ系の人達に対する差別が強くなり航空機の搭乗に際しても特別の検査をするべきといった意見まで出るようになりました。これに対して人種によって特別な検査を行う(これは人種プロファイリングと呼ばれます)ことに断固反対の立場にあったミネタ運輸長官は人種によらず全ての搭乗者に対する厳しい検査体制を命じたというわけです。戦時中の日系アメリカ人が経験させられた苦難は筆舌に尽くし難いものだったようです。
  
  1988年レーガン政権の時に「日系人の強制収容は米国政府の過ちだった」と正式に認め、日系アメリカ人の名誉が回復されました。この法案の起草と成立に努力されたのもノーマン・ミネタ氏だったのです。
サンフランシスコの南、電子産業で有名なシリコンバレーにあるサンノゼ国際空港は日系人として初めてアメリカ政府の閣僚になったノーマン・ミネタ氏に敬意を表して正式名を「ノーマン・Y・ミネタ・サンノゼ国際空港」といいます。


  写真はニューヨーク、マンハッタンの南端から3Kmのところにあるエリス島の全景です。右端には小さく自由の女神(エリス島から1Km先)が写っています。19世紀の後半から約60年間、ヨーロッパの諸国から大西洋を渡って自由を求めてアメリカにやってきた移民が最初にこの島に上陸しここで厳しい入国検査を受けました。持病などのために入国を拒否され強制帰国させられた多くの人がここから再び祖国に戻って行きました。なかには家族の一部の人だけが入国を拒否され家族がばらばらになるかどうかの辛い選択を迫られるといった悲劇も数えきれないほどあったようです。現在は「移民博物館」になっていて当時の様子を知ることが出来ます。現在のアメリカ人の4割近い人はここを通って入国した人々の子孫とも言われています。

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2011年7月27日 (水)

プラハ、ウィーンを旅してきました(2)

ShonbrunnSissi  プラハに比べウィーンは逆にハプスブルグ家が本拠を置きプラハを支配していた側です。女帝マリア・テレジアの時代に栄えた市街はその後さらに発展し、昔は街を取り囲んでいた頑丈な城壁と堀を19世紀の後半に取り壊し「リンク」と呼ばれる環状道路に造りかえました。リンクの内側を中心とする歴史的な街並みは「ウィーン歴史地区」として世界遺産になっています。

 ウィーン歴史地区はどこを見渡しても豪華で歴史を感じさせる素晴らしい建物ばかりで圧倒されてしまいました。共に街全体が世界遺産になっていますが、ウィーンはプラハとは明らかに雰囲気が違います。どちらも素晴らしいと思いますが個人的はプラハのより落ち着いた雰囲気のほうが気に入っています。

 ウィーンは「音楽の都」と言われますがそれを代表する施設が「ウィーン国立オペラ劇場」です。劇場の側壁には大きなスクリーンがあり、劇場内で毎夜のように上演されている一流のオペラや演奏がライブ中継されています。開演前から大勢の音楽ファンが敷物を石畳に敷いて待っていました。映像もさることながら音響も結構素晴らしいものでした。一流の演奏を無料で毎日聞けるのですから音楽ファンにはたまらない魅力でしょう。

 街の中心部、王宮からほど近い場所にある「聖カプチーナ教会」は外見はあまり目立たない小さな教会ですがその地下にはハプスブルグ家の歴代の皇帝の墓所があります。歴代の皇帝、女帝の棺がずらりと並べられています。ひときわ目を引くのは女帝マリア・テレジアの豪華な棺ですが、見学者が一番多く集まっているのは19世紀後半の皇帝フランツ・ヨーゼフの皇后であったエリザベートの棺です。
 彼女は「シシー」の愛称でその美貌と相まって国民の敬愛を一身に受けていたそうです。今もその人気は衰えておらずシシーの肖像はたくさんの商品や看板に使われています。彼女の棺は夫のフランツ・ヨーゼフ皇帝と若くして自ら命を絶った(暗殺説もあるようです)ルドルフ皇太子の棺の間におかれています。

 もう一つ、私がウィーンで思い出すのは今のヨーロッパ連合(EC)の思想的なバックボーンになったリヒャルト・クーデンホフ・カレルギー伯爵の母上だった日本女性、光子さんのことです。昔NHK特集(「ドキュメンタリードラマ 国境のない伝記」)でこの人のことを知り、感動したのを覚えています。明治時代に見知らぬ地に嫁ぎ伯爵夫人という難しい立場で苦労しながら立派に子供たちを育て上げウィーンの社交界でも一目を置かれていた光子さんもここが生活の場だったのです。

  上の写真はウィーンの中心部から5Kmほど南西にあるシェーンブルン宮殿の広大な裏庭です。テレジア・イエロー(外壁を金にしたかったけどマリア・テレジアが財政のことを考えて金色に近い黄色にしたそうです)と呼ばれる黄色に塗られた豪華な宮殿を背にして撮りました。ここにはマリア・テレジアやその娘、マリーアントワネットが住み、モーツアルトもここに招待されて神童ぶりを発揮していたのですね。その後ナポレオンがここを司令部にして滞在し、「会議は踊る(、されど進まず)」と評されたウィーン会議の場ともなりました。もう一枚の写真は聖カプチーナ教会のシシーの棺です。


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2011年5月30日 (月)

プラハ、ウィーンを旅してきました(1)

Prague_castleCathedral  かねてからのあこがれの街であった二都市を訪れました。どちらも旧市街全体が世界遺産に認定されているだけあって素晴らしい街でした。特にプラハの街の美しいたたずまいには感動しました。

 NHKで放映された「千年の王宮・プラハ」という番組でチェコという国やプラハ城が過去に経験した苦難の歴史を見ましたがとてもあのような波乱万丈の歴史を経た街のようには思えないくらい落ち着いた静かな美しい平和な街や城でした。

 プラハはハプスブルグ王朝の支配下でチェコ語を使うことさえ許されなかった時代を経て第一次世界大戦後に民主主義国家「チェコスロバキア」となったのもつかの間、第二次世界大戦中はナチスドイツに占領され、終戦でナチスの支配から逃れたものの今度は旧ソ連で共産主義社会の洗礼を受けました。それでもそのなかで何とか民主化運動を進め1968年、「プラハの春」と呼ばれる改革を推進しましたが民主化を恐れるソ連・東欧により厳しい弾圧を受けます。結局1989年ソ連の崩壊、その後のスロバキアとの分離を経てようやく現在の平和なチェコ共和国となったのです。

 小高い丘の上にあるプラハ城から眺めますと手前にヴルタヴァ川がゆったりと流れています。いくつもの橋が見えますが有名な「カレル橋」が観光客で賑わっています。その先に赤い屋根の建物が続くプラハ旧市街が一望できます。プラハは別名「百塔の街」と呼ばれますが本当にたくさんの塔が見えます。

 ヴルタヴァ川は日本ではドイツ名であるモルダウ川の名で知られています。スメタナ作曲の交響詩「わが祖国」で有名な川ですがスメタナはチェコの作曲家ですからわが祖国はもちろんチェコですし「わが祖国」の第2曲の原題は「ヴルタヴァ」です。プラハの人たちは苦難の時代をこのスメタナの「わが祖国」を心の支えとし、美しい街を眺めながら苦難を耐え忍び祖国の再興を願ってきたのでしょう。

 上の写真はプラハ、ヴルタヴァ川にかかるカレル橋の上からのプラハ城の全景です。王宮(現在の大統領府)の中央に高くそびえるゴシック建築の建物は「聖ヴィート大聖堂」で14世紀から600年かけて造られた高さ約100mの壮麗な聖堂です。城の中央にカトリックの聖堂があるという珍しい形になっています。下の写真はその中にある大きなステンドグラスの一つで、美しい色彩の絵画で知られるチェコの画家アルフォンス・ミュシャ(チェコではムハと呼ばれます)の描いたものです。荘厳な大聖堂の中のこの鮮やかな色彩のステンドグラスには圧倒されました。


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2011年4月22日 (金)

地殻の変動が引き起こす大きな地震

St_paul   なんとも恐ろしい大地震とそれにともなう大津波でした。克明に報道される津波被害の惨状を目にして言葉もありません。被災され、辛くも命をつながれた皆さんに心の休まる生活が少しでも早く戻ることを祈るばかりです。

  地震は地球の表層を薄皮のようにごくわずか覆っている地殻が急に動く時に起こるのはご承知のとおりです。世界中の地殻は14~15枚のプレートと呼ばれる厚さが100Km程度の岩盤に分かれていますがその境界でよく今回の様な大地震が起こります。数少ないプレートのなんと4枚の境界線が日本近辺に集中しているのですから日本に地震が多いわけです。

  それでも地球46億年の歴史を見ますと現在のこの地球の活動は随分穏やかなものです。地球の歴史の初期にはとても我々が想像できないような激しい地殻の変動や地殻のさらに奥深いマグマの噴火が頻繁に起こっていたようです。何しろ海底であった地層が(もちろん長い時間はかかっていますが)盛り上がってヒマラヤ山脈の一部にまでなったり、2億年前に世界中が一つの大きな大陸(パンゲア大陸)であったものが地殻が動くことによってばらばらにちぎれて現在の様な6大陸が出来上がったり、といった驚く様な激しい変動がありました。アフリカ大陸の西海岸の形と南米大陸の東海岸の形を重ね合わせるとよく一致するのはその名残です。勿論大変長い時間をかけて大陸がばらになったのですがその過程では大きな地震が無数に起こったことでしょう。

  「うなぎ」は大変謎の多い魚ですが、最近になってようやく一生をどこでどのように過ごしているかが解明されてきました。 マリアナ海溝で産卵 黒潮で太平洋を時計回りに半年かかって北上して日本にやってきます。それから 日本の川を遡上し、5年くらいでマリアナに戻り産卵するようです。なぜこのような遠方まで行って産卵するのかは不思議ですが、 うなぎが地球にあらわれた1億年くらい前はマリアナがもっと近いところにあってそこで産卵していたのですが大陸移動で日本とマリアナの距離が遠くなってしまったので今の場所まで産卵に移動することになったという説が有力なのだそうです。毎年ごくわずかずつしか地殻が動かないので産卵場所を変更するというきっかけがなかったのでしょう。

  写真は先年中国に返還されたマカオに残るセントポール大聖堂です。写真でお分かりのように前面の壁だけが残っていて木造だった建屋本体は焼失しています。この大聖堂の完成は島原の乱と同じ年で日本においてキリシタンに対する迫害が激しかった頃でした。迫害をのがれてマカオに来たキリシタンがこの建設にもかかわったと言われていて壁面にはいくつかの菊の花が見られます。フランシスコ・ザビエルがなくなったのもここマカオでした。


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2011年3月29日 (火)

ちょっといいおはなし(2)

Mt_tanigawa    今年のアカデミー賞で作品、監督、主演男優、脚本賞を受賞した映画「英国王のスピーチ」を見ました。 久しぶりに素晴らしい洋画を見ることができました。

 20世紀初頭の英国国王ジョージ五世の次男ヨーク公は小さい頃から吃音を抱えていてスピーチがうまく出来ず悩んでいました。そのため専門の言語療法士ライオネル・ローグの指導のもとに矯正を試みるのですがなかなかうまくいきません。 父親のジョージ五世が亡くなり、もしかすると自分が王位に就かなければならないと心配しますが兄が国王に即位してひと安心しました。しかしその安堵もつかの間、その兄、エドワード八世がシンプソン夫人と結婚するため就任後たった一年で王位を捨ててしまいます。ついにヨーク公がジョージ六世として英国国王に就任することになってしまいます。現在の英国女王エリザベス二世の父上ですね。

 就任して間もなく英国はヒトラー率いるドイツ軍との第二次世界大戦に突入することになり、開戦に当たって国民にその覚悟を促す演説を行なうことになります。ローグの献身的な助けもあって欠点を見事克服し成功裏に演説を終えたジョージ六世はその後も生涯ローグとの強い絆を保ち続けたそうです。

 ちょっといいお話というのはここからなのですが、私が小さい頃に父親から聞いた話です。開発途上のある国の国王が英国を訪問しジョージ六世と会食をした際、フィンガーボール(ご存知とは思いますが、食事中に指を使った後にその指を洗うための水を入れたボール、レモンなどで香り付ける場合が多い)を知らなかったその王様はフィンガーボールの水を飲んでしまいました。その時それを見た英国王はその王様に恥をかかせないために自分も同じようにフィンガーボールの水を何食わぬ顔をして飲んだというお話です。これが史実かどうか調べてみましたが19世紀半ばの国王ヴィクトリア女王だという説もあるようで私が小さい時に聞いたこの話の真偽のほどははっきり分かりませんでした。 でもちょっといいお話だと思いませんか?


 写真は世界でも最も多くの山岳遭難者を出している谷川連峰の最高峰を天神峠から写したものです。登山というものにおよそ縁のない私ですが、一度天下の谷川岳をこの目で見たいと思って公共交通機関だけで最も近づけるとこまで行ってみようと考えました。電車、バス、ロープウェーを乗り継いでたどり着いた先、天神峠は何と山頂までたった3Km、目の前にあの谷川岳がそびえていました。何か信じられない気持でした。山登りが好きな友人に話しましたら「頂上から経った数Kmの地点まで行って頂上に登らずに帰ってくることの方が信じられない」と言われてしまいました。


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2011年2月26日 (土)

なつかしい「電話リクエスト」

Sennyuuji7   ようやくテレビ放送というものが始まったばかりの私の中学時代、音楽を聴くのはもっぱらラジオでした。初めはNHKだけでしたが1951年頃から民放が加わりました。阪神間に住んでいた私が聞くのは大阪の「朝日放送」と「新日本放送」(後の毎日放送)それに神戸の「ラジオ神戸」(後のラジオ関西)でした。

  「ラジオ神戸」は友人の間では人気の放送局でした。それは毎週日曜日の夜7時から9時までの二時間放送される「電話リクエスト」があったからです。その後ポピュラーになった電話リクエストですが日本で最初に放送したのはラジオ神戸でした。電話リクエストはその後各局に広まり特に受験生の友として人気がありました。団塊の世代が受験期を迎えた昭和40年前後が最盛期だったと思います。中学時代にラジオ神戸を聞けたことは幸せでした。

  リクエストできる曲に制限は特に設けられていなかったと思いますが流れる音楽はほぼすべて当時最盛期のアメリカンポップスを中心とする洋楽でした。それらに混じって国内で活躍していた鈴木章次(クラリネット)とリズムエースの演奏する「鈴懸けの道」(スイングジャズ)と有馬徹とノーチェ・クバーナの演奏する「城ヶ島の雨」(ラテン音楽)といったいずれも日本の曲をアレンジした演奏もよくリクエストされていました。「鈴懸けの道」は今もネットで聴けますが「城ヶ島の雨」は残念ながら見つかりません。もう一度聞いてみたいいい演奏でした。どなたかYoutubeにアップロードしてくれる方がいればうれしいのですが。

  アメリカンポップスは当時はもちろん(CDではなく)レコードですが、その多くがLP盤(33回転)とは異なるEP盤(ドーナツのように中央の穴が大きかったのでドーナツ盤と呼ばれていました、45回転/分)で売られていました。お小遣いを貯めてよく買いに行ったものでした。

  リタイヤしてからまたラジオをよく聞く様になりましたが今度は音楽ではなく昼間のトーク番組です。加えてネットでは国内のみならず世界中のラジオ局の放送が聞けるようになりました。50年以上前とは文字通り隔世の感があります。海外のラジオ局は音楽のジャンル別(クラシック、ジャズ、カントリーウエスタン、オールディーズ等々)に専門の放送局がたくさんあり楽しいです。


  写真は京都泉涌寺(せんにゅうじ)です。JR東海の「そうだ京都、行こう。」というテレビCMはご存じだと思います。あのCMを見ていると無性にその場所を訪れてみたくなります。泉涌寺もCMを見て行きたくなって訪れました。小雨が降っていたために一段と落ち着いた静かな雰囲気でした。楊貴妃観音像を見ましたが他の観音像とはかなり雰囲気の異なる何とも言えない美しさでした。


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2011年2月 6日 (日)

人類のヨーロッパへの苦難の旅

Kensington_palace2_4  西アフリカで生まれその地で長い間暮らしてきた人類の祖先はやがてその一部がアフリカの地を離れ世界各地に散って行きました。

  アジア大陸に渡りさらにアリューシャン列島沿いにアメリカ大陸を縦断し、さらには海を渡ってオーストラリアに渡った人類はそれぞれの地で文明を形成し繁栄していきました。

  西アフリカから距離的には最も近いヨーロッパに向かった人類は「日照不足」という経験したことのない伏兵に悩まされ、距離が近いにもかかわらず苦難の旅を続ける運命にさらされました。日射しの強いアフリカに暮らしていた人類は紫外線から体を守るために肌が褐色~黒色に変化していました。このお陰でアフリカでも皮膚ガンにかかることも無く暮らすことが出来たのです。

  アジア地方に向かった人類は紫外線もアフリカに比べて弱いためやがて黒~褐色の肌の色が薄くなり黄色人種(モンゴロイド)に変化しました。

  他方、緯度が高く太陽光がはるかに弱い北ヨーロッパに暮らそうとしますと日照不足から体に不可欠なビタミンDが不足し、「くる病」等の恐ろしい病気にかかり子供は成長することが出来ずついには民族が滅亡してしまいます。しかし長い時間の後、突然変異や進化の過程を経て肌の色が白くなり、今のヨーロッパ人(コーカソイド)の原型がようやく出来上がったというわけです。随分苦労をしたのですね。

  オーストラリアは紫外線が強いために「アボリジニ」の様にやはり肌の色が褐色の民族が繁栄していました。ところが18世紀の後半からたくさんのイギリス人をはじめとするヨーロッパの人種が流入するようになりました。現在も人口の半分以上がイギリス系等のヨーロッパ系が占めています。彼らは強い紫外線を守る皮膚の色を持っていないために皮膚ガンの発生率が世界一です。移住して高々数百年では皮膚の色が変化するには短すぎるのですね。

  皮膚の色は白かったものが強い紫外線に適応して褐~黒色になった様に想像しがちですが、実際はその逆で、もともと褐色~黒色だった人類が日照不足の土地で暮らすために白色に進化していったのですね。


  写真はロンドンのケンジントン宮殿です。市の中心部に広大なハイドパークという公園がありますがその西側部分はケンジントン・ガーデンと呼ばれておりその庭園を背景に美しい宮殿が建っています。この宮殿はチャールズ皇太子と故ダイアナ王妃が住んでいた場所として有名になりました。ダイアナ王妃(プリンセス・オブ・ウェールズ)は離婚後もこの宮殿が公の居住地だったそうです。ちなみにデパートの食料品売り場は地下にあることが多いですね。これはロンドン、というより世界で最も有名な百貨店である「ハロッズ」(現在のオーナーはダイアナと同じ事故で死亡したエジプト人のアルファイド氏の一族です)の食品売り場が地下に設けられたためと言われています。


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2011年1月17日 (月)

悪夢の阪神大震災

Beacon_hill002   今日で阪神大震災発生から16年が経ちました。時間の過ぎるのが早すぎるように思います。

  阪神間で生まれ育った私には大変ショックな出来事でした。実家は全壊し、私の生まれ育った思い出のたくさんある家は消えてしまいました。

  あの日、早朝のニュースで地震を知りすぐに実家に電話しましたが既に繋がりませんでした。大きな地震が関東に比べて極めて少ない関西にしては珍しく大きな地震だとは思いましたが、朝七時のニュースではまだ死者が数人程度との報道だったので正直それほど深刻には考えていませんでした。 でも数時間後に倒壊した阪神高速道路の画像を見たときは身の凍る思いがしました。 夕刻になってようやく連絡が取れ、家屋は全壊したものの皆無事と聞き胸をなでおろしました。

  数日後、新幹線、在来線、私鉄を乗り継いで実家の近くまで行きそこから数キロの電車の不通区間を歩いて実家を目指しました。小さいころからよく通り慣れた道ですが難を逃れた新築の家が所々残っているだけでほとんどの家が全半壊しているという、戦争末期の空襲にあった町をしのぐ何ともむごい風景でした。近くを走る山陽新幹線はほんの数百メートルの間で十ヶ所近くの橋脚が崩落しており地震の発生がもし昼間だったら、と考え心の底から恐怖を覚えました。

  亡くなった六千人以上の方々のご冥福を改めてお祈りするとともに震災のことを思い出して災害への備えを常に怠らないようにしたいと改めて思います。


  写真はボストンの町中の住宅街「ビーコンヒル」のとある一軒の家です。このあたりは19世紀のボストンの高級住宅地だった所で、今も当時の姿のままの美しい住宅が多く残っています。路地を入ると砂利道が残っていてそこに当時の古いアメリカ国旗が掲揚されていたりして19世紀にタイムスリップしたような気分になります。このあたりの店は文字ではなく絵や彫刻の美しい看板が掲げられています。当時このあたりで働いていた高級住宅の使用人に文字の読めない人が多かったためにこのような看板が使われたそうです。古き良きアメリカを絵に描いたような街です。

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2010年12月25日 (土)

「サンタクロースは本当にいるの?」

Generalife3    今日はクリスマです。私はクリスチャンではありませんが子供の頃はいつも教会(正しくは中高生対象の教会学校)に通っていました。クリスマスイヴの夜は「クリスマスキャロリング」で皆と夜遅くまで聖歌を歌って教会員の家々を回った楽しく懐かしい思い出があります。

  同じように、夜中に大学のグリークラブのお兄さん方が大勢で物音も立てずに私たちの家の前にやってきて突然賛美歌を歌いだしてくれるのがクリスマスの何よりもの楽しみでもありました。

 クリスマスにいつも思い出すのは19世紀末に新聞社に寄せられた「サンタクロースは本当にいるの?」という8歳の女の子バージニアの質問に「THE New York Sun」がなんと社説で答えを書いたというお話です。ご存じの方も多いことでしょう。

「この世で最も本当のことは大人にも子どもにも見えないものなのです。芝生の上で踊っている妖精を見たことはありますか?もちろん、ないですよね、でも、だからと言ってそこに妖精がいないという証拠なんてないのですよ。・・・ サンタクロースはいるのです。そして、永遠に生き続けることでしょう。バージニア、今から千年後、今から千年の十倍のまた十倍の後になっても、サンタクロースは子どもの心を喜びで満たしつづけるのですよ。」
といった美しくやさしい文章でサンタクロースはいるのだと書かれています。何度読んでも素晴らしい文章です。もっと詳しくおしりになりたい方は別のサイトをご覧ください。

  この新聞社はこれ以降毎年クリスマスにはこの同じ社説を、新聞が20世紀半ばに休刊になるまで掲載し続けたそうです。今ではこの文章は絵本になって広く読まれています。なおこの社説は 「サンタはいる。そう書ける新聞でありたい、と思う。」という言葉で結ばれていたそうです。


  写真はスペイン、グラナダの「フェネラリフェ(天の楽園)」という離宮の中庭です。アルハンブラ宮殿のすぐ近くにあり、宮殿の貴族たちが夏の離宮として使っていたそうです。アルハンブラより涼しいわけではありませんが豊かな噴水が涼しく感じさせてくれます。イスラムの王が作ったアルハンブラ宮殿は後にキリスト教徒であるイザベル女王によって征服されましたが、この宮殿の美しさに魅せられた女王はそのままの建物に一生住み続け宮殿の一角に埋葬されました。

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2010年12月22日 (水)

ちょっといいおはなし(1)

Boston   最近見聞きした『ちょっといいお話』をご紹介します。

 人口がたった3万人という『サンマリノ共和国』はイタリアの中にある世界で5番目に小さな国家です。小学生の頃に切手集めがはやっていて私もやりましたが、きれいな切手を沢山発行していた国として記憶にあります。今も切手は国の重要産業らしいです。

 この国が千年以上の間どこからも占領されることなく続いてきたのは国家、国民の叡智の賜物であったようです。ナポレオンからの「もっと国土を大きくしてやろう」との誘惑をも「国土が拡大するともっと国土を大きくしたくなる」との理由で固辞し、ほとんどの都市国家が大国に吸収される中を生き抜いてきました。

 行政は2名の「執政」が取り仕切っています。執政の選出方法は大評議会議員からの互選であり、任期はたったの6ヶ月です。これ以上長く権力を持ち続けると腐敗するからなのだそうですが、短命政権が続きながら腐敗が続出するどこかの国との違いに驚くばかりです。国民全員がお互いに顔見知りであり、公平な裁判ができないという理由から、裁判官は全員外国人なのだそうです。

 第二次世界大戦で完全中立を貫いたこの国にはイタリアから当時の人口の7倍近い十万人の難民が国境を越えてやってきました。その時サンマリノ国民は自分たちの食料や日用品の配給量を減らし自分たちと同じ待遇を難民にも与え続けたと言われています。民主主義や人道主義の鏡の様な国ですね。

 写真はボストンの近郊コンコードの町に今も残る「若草物語」の著者ルイーザ・メイ・オルコットが住み、小説を書いていた家です。コンコードやレキシントンといった町はアメリカ独立戦争の始まった地域でその遺跡が多くありますが有名な文学者や思想家を多く輩出した文化の香りのする古い町でもあります。

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2010年11月 8日 (月)

宇宙の本当の姿は?

Toji0114_2   宇宙のことをいろいろ知ることは私の趣味の一つであることは以前にも書きました。
  20世紀の後半の宇宙科学の進歩で宇宙の歴史、宇宙の全体像がかなりはっきりとしてきました。
それを解説した書物を見ますと私にも大変理解しやすく読んでいてわくわくするような壮大な世界でした。

  21世紀に入りその進歩は依然、というよりむしろ加速して続いています。ところが困ったことにこれまで私にも理解しやすかった宇宙の姿が次第に分かり難くなってきたのです。残念ですがこれが宇宙の本当の姿なのでしょうからいたしかたありませんね。

 「宇宙は何でできているか?」と問われれば「恒星や惑星などの無数の星で出来ていてあとは真空の広大な空間」と考えるのが普通の感覚です。ところが最近の研究結果では「恒星や惑星は宇宙全体の物体(この表現は実は正確ではありませんが)の1%にも満たない」というにわかには信じがたい説が正しいとされているそうです。
  
  ということはこれまで我々が宇宙として親しんできたことが本当の宇宙のごくごく一部でしかないということになります。それでは残りの99%以上は一体どんなものなのでしょう? そのひとつは先年、小柴博士がノーベル賞を受けられて有名になった「ニュートリノ」です。桁違いに小さな粒子で人間や物体はおろか地球さえも完全に素通りしてしまいます。今この瞬間も何兆個(!!)という膨大な数のニュートリノが我々の体を猛烈なスピードで素通りしているというのですからなんともはや…。

  でもこのニュートリノとて宇宙のほんの一部、残りは「暗黒物資」「暗黒エネルギー」と言われる目に見えない物質やエネルギー(アインシュタインの相対性理論の発見で物質とエネルギーは実は形は違っても同じものであることが分かっています)なのだそうです。20世紀に私が理解できていた宇宙の姿と同じように本当の宇宙の姿を理解出来るようになるまで私は生きていられるでしょうか・・・。

  写真は夕日に染まる京都「東寺」の五重塔です。新幹線で京都駅から新大阪に向かってすぐ左手に見える何とも美しい五重塔ですね。木造の五重塔としては日本で一番高いものなのだそうですが何度も火災にあい今のものは江戸時代初期に建てられた五代目なのだそうです。気品のある素晴らしい塔です。11月初めに写しましたが今年は猛暑の影響か紅葉がいつもより早いような気もします。

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2010年10月14日 (木)

人類の歴史

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 「宇宙」の話も面白いですが我々が住む「地球」もその歴史を学ぶとこれまた興味が尽きません。

  「月」は、まだ出来て間もない地球に火星ほどもある大きな天体「ティア」が衝突した時にその破片から生まれたといわれています。もしこの地球に月がなければ地球の自転速度は今の3倍にもなって(1日が8時間ということですね)、今とは比べ物にならない巨大なハリケーンの発生などで生物の発生はともかく、とても人類のような高等動物が生まれてくるような環境にはならなかっただろうと言われています。考えてみますと本当に無数の幸運が重なって我々は毎日この地球上で生活が出来ているわけです。

  我々は小さいころ「人類の祖先は北京原人、ジャワ原人、ネアンデルタール人、クロマニヨン人など」と教えられてきました。 1950年代にDNAの構造が明らかになりその後その分析技術が急速に進歩して今ではいろいろな分野で活用され世の中になくてはならない重要な技術になっています。犯人の特定などに用いられているのはご存じの通りです。

  細胞の中にある「ミトコンドリア」が持っているDNAは母親と全く同じものを受け継ぐという特殊な性質があります。これを利用して人類の先祖が特定されるという素晴らしい発見がありました。ご存知の方も多いと思いますが「現在の人類のすべての祖先は西アフリカの一人の女性(ミトコンドリア・イブ)に行きつく」という驚くべきものでした(ただし、このことはこの一人の女性から人類が始まったということではありません)。そして我々が人類の祖先だと習ってきたいろいろな原人はすべて数万年前までに途中で絶滅して今の人類の祖先ではないことが分かったのです。

  その人類の祖先(ホモサピエンス)は20万年くらい前に西アフリカに生まれてその一部が今から6万年前くらいにアフリカを出て世界中に散って行ったそうです。南米の原住民が我々日本人とおなじ「モンゴロイド」という分類に入るというのはよく知られていますがこれはアフリカを出た人類の祖先がアジア、シベリア、アリューシャン列島を経て北アメリカを通り南アメリカに移動したと考えられています。(今のアメリカ人はほとんどがヨーロッパ、アフリカなどからの移民の子孫ですがインディアンなどの原住民はモンゴロイドです) このような人類の移動の裏には涙ぐましい苦難の歴史があるようです。特にヨーロッパへの人類の移動、定住は大変だったようです。このことは改めてふれてみたいと思います。日本人の起源も興味深いですが以前考えられていたほど単純なものではないことも分かってきたようです。

  写真は京都の御室派総本山「仁和寺(にんなじ)」の寝殿北庭の紅葉風景です。パノラマ写真にしました。仁和寺と言えば御室の桜で有名ですが紅葉の季節も素晴らしいです。紅葉ではすぐ近くの三尾(さんび)と呼ばれる栂尾(とがのお)の高山寺、槙尾(まきのお)の西明寺、高雄の神護寺が京都随一の名所として知られていますが仁和寺の静かな庭の紅葉も捨て難いものです。三尾の帰路に訪ねてみてはいかがでしょう。

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2010年8月 9日 (月)

『昭和史』が面白いです

Tokyo_skytree    平成になってあっという間に20年以上が経ちました。「昭和」という時代は戦争、敗戦、戦後の復興、バブルへの道、と波乱万丈の時代でした。私は歴史が好きでいろいろな時代のことを読んだり映像で見たりします。 でもこのところは「昭和史」にすっかりはまっています。明治維新、戦国時代なども面白いのですが自分の経験したことと照らし合わせてみることができません。戦後の昭和史についてはそれが出来ますし、戦中史についても身近に感じながら考えることが出来ます。


  それだけに昭和史を読むときは著者を選ぶ必要があると思っています。私はその客観性という意味で半藤一利氏(「昭和史」上下巻 平凡社など)と保阪正康氏(「昭和史の教訓」朝日新書など)の著書を好んで読んでいます。

  
  考えてみますと日本は世界各国が日本が勝てるとは思ってもいなかった日露戦争に勝って、それが日本の実力だと勘違いして(実際は体力が限界に来ていてアメリカに頼み込んで終戦の協定に持ち込んでもらったのです)、それ以降覇権を目指して日中戦争、太平洋戦争の悲劇へと突き進んだわけです。驚くべきことにナチスドイツと世界を二分して支配しようと計画していたという世界占領計画の文書まで見つかっているそうです。狂気の沙汰としか言いようがありません。


  毎年終戦記念日や原爆記念日が来るたびに、敗戦が決定的だったのになぜ降伏をあれほど引き延ばしたのか、せめて同盟国のドイツが降伏した5月7日に降伏していれば(東京大空襲には間に合いませんが)数百万人の命が無駄にならなかったのにとあらためて当時の軍部や政府の自分たちのことしか考えていない対応の愚かさに腹が立ちます。

  写真は408mにまで高くなった東京スカイツリーの姿です。猛暑の日に浅草業平橋の工事現場あたりを散歩して写してきました。足元からはとてもデジカメの画面に収まりませんので二枚に分けてパソコンでつなぎ合わせました。暗いニュースが多い中で東京スカイツリーは数少ない楽しい話題です。

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2010年6月29日 (火)

お帰りなさい!「はやぶさ」

Ajisai_2   聞くも涙の苦労の連続の末ついに小惑星探査衛星「はやぶさ」が無事地球に帰還しました。以前にこのブログで「はやぶさ」が地球からはるか遠くの小惑星、「イトカワ」に私も含めて88万人の人たちの名前を刻んだ「ターゲットプレート」を届けてくれたことを書きました。

  この「はやぶさ」が7年間にわたる長旅を終えて地球に帰還したのです。もっとも「はやぶさ」本体は自分を犠牲にして大気圏突入で燃え尽きその分身であるカプセルを無事オーストラリアの砂漠に届けました。当初の計画より大幅に遅れての帰還でした。その間エンジンが全部動かなくなってしまったり、しばらくの間地球との間の交信が全く途絶えて行方が分からなくなってしまったり、はたまた「イトカワ」への1回目の着陸では機体が傾いて動けなくなってしまったり、それはもう満身創痍の状態でした。でも、そのすべてのトラブルをその都度日本の科学者の素晴らしい準備と機転と創意、あたかも生き物のように七転び八起きでその都度立ち直り頑張った「はやぶさ」の不屈の精神で克服しついに地球に戻ってきたのです。何ともけなげです。
 
  まだしばらく時間がかかるようですが、願わくはカプセルにわずかでも「イトカワ」の岩石の一部がキャッチされていて四十数億年前地球が出来たころの様子を知る上での貴重な資料になってほしいものです。 

  2010年11月、「はやぶさ」の持ち帰った物質の中に「いとかわ」のものに間違いないと思われる微粒子がたくさん見つかったと発表されました。人間が地球以外の天体から持ち帰った(隕石は持ち帰ったのではなく向こうからやって来たものですね)物質としては月に次いで世界で二番目です。月は地球と同じように出来た当初ドロドロに熔けた状態でそれが固まってできていますが「いとかわ」は出来た時のままの姿を保っています。ということで宇宙の歴史を知る上で貴重な材料が獲得できたました。これからの展開が楽しみです。(2010年11月追記)

  写真はご存知「アジサイ(紫陽花)」の花です。梅雨の季節の今が盛りの花ですね。正しくは「セイヨウアジサイ」で日本原産の「ガクアジサイ(額紫陽花)」(この花もよく見かけます)を改良してできたもののようです。少しさびしい感じのする花ですが写真のようなピンクのアジサイは幾分華やかです。土が酸性なら青、アルカリ性なら赤い花になります。リトマス試験紙とは逆ですね。アジサイの名所はたくさんありますが箱根登山鉄道脇のアジサイは素晴らしいです。

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2010年4月29日 (木)

『速読術』の極意

Tulip   「速読術」というのをお聞きになったことがあると思います。文字通り書物などを早く読む術ですが、本のページをペラペラとめくるだけで読んでしまう達人を見るとこれはチョット??と思いますが活字を読む速度が遅い私はもう少し早く読めるようになれば・・・と思っています。

 入門書を手にしたこともありましたがすぐにあきらめました。先日NHKの「ためしてガッテン」という番組で「速読術」が取り上げられましたのでだまされたつもりで見ました。そこでひとつ「目から鱗」の極意を教えてもらいました。

  「本は(音声で)読んではいけない」「つぶやいてはいけない」というのです。たまたまラジオを聴いていましたらフリーのアナウンサーで大変早口の久米宏氏でも最速で一分間に500~600文字を喋るのが限度とのことでした。速読術の訓練を受けない一般人の読書速度がやはりこれとほぼ同じですからなるほど、つぶやいたり、声に出さなくても心(頭)のなかでつぶやいて(音声化して)いればこれ以上の速度で読むことはなかなか難しいことも理解できます。

  確かに私は声には出さないまでも心の中で音声化していました。文字を見てすぐにその意味が(音声にしなくても)分かる様になるのはかなり訓練がいりそうです。でも「なるべく音声にしない」ようにして読む努力をしますと少し早く読めるようです。これはよいことを教えてもらったと思っています。


  写真は昭和天皇の在位50年を記念して東京都立川市と昭島市にまたがって設立された「国営昭和記念公園」で4月に写しました。チューリップが満開です。池と芝生、花畑がきれいに配置されていてちょっとヨーロッパに来たような気分でした。今年は気温の変化が激しくて花たちも戸惑ったのか桜と花水木が一緒に咲いていたりといった異変が見られます。地球温暖化の影響でなければいいのですが。

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2010年3月12日 (金)

便利な世の中になりました

Hanamiyama3

  思えば随分物質的には便利な世の中になりました。電子技術の進歩の影響が特に大きいように思います。以前ですとふと知りたくなった事柄は手元の百科事典を調べるか人に聞くかしたものですが満足する答えに行きつくことはめったにありませんでした。でも今やインターネットの普及で瞬く間に所望の情報が居ながらにして手に入ります。

 電子技術の進歩をそれ以上に感じるのは録画、録音装置の進歩だと思います。録音機というものが初めて携帯用の商品として世の中に出たのは今から約60年前、「デンスケ」と呼ばれたこの商品、なんと重さが45Kg、16万円もしたそうです。今の価格にするととんでもない高額商品だったと思います。その後トランジスターの普及を経てどんどん小型化し安くなってきました、今やICレコーダーの時代になり手のひらにすっぽり収まる大きさで何百時間の録音ができるものが1万円と少しで手に入る時代になりました。まさに夢のような進歩です。

 録画装置もそれに負けず劣らずすばらしい進歩を遂げてきました。テレビが普及し始めた初期のころは録画装置がありませんでしたから放送はドラマも(一部映画と同じようにフィルムに収めて放映するものもありましたが)ほとんどすべて生放送でした。役者も裏方の人たちもずいぶん苦労が多かったと思います。その録画機も家庭で使えるカセットテープを経てハードディスクになりどこにも見られるものになりました。何しろあの小さな携帯電話で簡単に録画が出来てしまう様になったのですから昔は想像すら出来ないことでした。

 数年前に書きました「立体映画(3D映画)」も電子技術の発達で劇場映画はもちろんのこと、「3Dテレビ」として家庭にまで入り込み始めました。なぜかあれだけ好きだった立体映像への憧れが急にしぼんでしまいました。ちょっと残念ですが時代の流れ、いたし方ありません。ちなみに最近の3D映画はまだ見ていません。というよりまだその気になりません。


 写真は福島県福島市の市街地近くにある「花見山公園」です。全山がいろいろな種類の桜、レンギョウ、ボケ等々で覆い尽くされた見事な山ですがこれは全部個人の持ち物で花木畑として手入れされているものを一般に無料で公開されているそうです。すばらしい奉仕精神だと思います。
このような見事な風景に出会うたびにそれを写真に撮ってみて自分の技術の未熟さを思い知らされます。お陰で何枚も絵葉書を買って帰ってくる羽目となります。名の知れた一本桜もいいと思いますが地主の方の気持ちを考えますと一層山が美しく見えます。

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2010年1月18日 (月)

COOL(かっこいい) JAPAN

Kawazu_zakura_2   NHKに「COOL JAPAN」という番組があるのをご存知でしょうか。毎回日本に住む外国人から見て「COOL(かっこいい)」なものを取り上げて繰り広げられるトーク番組です。
 これまでいろいろ放送されたものの中で最もCOOLなものの第一位に選ばれたのは第三位の「100円ショップ」、第二位の「お花見」を抑えて何と「シャワー・トイレ」でした。
  そう言えばたしか歌手のマドンナが日本に行きたい最大の理由はあのシャワートイレの便座の暖かさだと言っていたのを読んだことがあります。 サラリ-マン川柳で「この俺に 暖かいのは 便座だけ」というのもありましたね。

  番組でも紹介されていましたし、以前何かの本で読みましたが、このシャワートイレなるもの、実は日本の発明品ではないのです。米国で医療用に開発された特殊なものだったようです。これに目をつけた日本の衛生陶器メーカーが家庭用に輸入販売しようとしたようですが使い勝手も悪くほとんど売れなかったそうです。でもこのようなニーズは確実にありと読んだメーカーは大変な開発の努力を続けついに現在のようなCOOLな製品に仕上げたというわけです。

  「COOL JAPAN」を見ていますとわれわれが日ごろ当たり前だと思って見たり使ったりしているものが実は外国人から見ると単に珍しいだけでなく、便利でかっこいいものに感じられるものが結構いろいろあるようです。このような意見は日本文化の海外への輸出や観光立国を目指すときに大変貴重なものだと思うのですが如何でしょうか。

  
  写真は早咲きの桜として有名な「河津桜(カワヅザクラ)」です。伊豆半島の東海岸、静岡県賀茂郡河津町で毎年二月から三月初めにかけて咲く濃いピンク色の桜です。早咲きであること、ソメイヨシノなどと違って開花期間が長いこと、それにこの濃いピンクの可憐な花で大変人気があります。50年位前に地元の一人の方が雑草の中で自然交配で出来た苗木を見つけ以後住民の努力で今のようにたくさんの木々に増やしたそうです。河津川に沿って続く桜並木はすばらしいです。菜の花とのコントラストもいいと思います。


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2009年12月12日 (土)

クリスマスのライトアップ

Ny_042   年末になりますとあちこちでクリスマス、新年のライトアップが話題になります。
 今年は11年ぶりに原宿表参道のケヤキ並木のライトアップ復活が注目を集めました。恒例のライトアップがなくなってちょっとさびしい気がしたのはもう11年も前だったのですね。
 当時は樹木に対するイルミネーションのライトの熱の弊害が言われていましたがこの10年くらいの間に白色や青色のLEDが安価に生産されるようになりました。科学も進歩しているのですね。
 その昔はイルミネーションと言うと赤、青、黄色、色とりどりのランプが点滅するというのが定番でしたが、今や青や白の単色の光、それも点滅しないのが主流になりました。六本木ヒルズ、東京ミッドタウン等を見ますと随分センスが良くなりました。  

 数年前の11月に有名なニューヨークのロックフェラーセンターの大クリスマスツリーの点灯の瞬間を見ようと出かけたことがあります。大勢の人が群がる日本と違って「アメリカの人出は日本に比べると大したことがないだろう」とタカをくくって、それでも1時間以上前にロックフェラーセンターに出かけました。ところが目論見は見事に狂い、全くそばに寄りつけません。はるかかなたでスピーカーから流れるカウントダウンの声だけを聞きました。結局クリスマスツリーのそばにたどり着けたのは1時間もたってからでした。。お粗末な読み違いでした。


  写真はロックフェラーセンターのクリスマスツリーです。腕に加えて当時のデジカメの性能の問題もあり、うまい写真が撮れませんでした。ロックフェラーセンターの中央の半地下には有名な金色の「プロメテウスの像」があり、冬はそばにアイススケートリンクが開設されています。このツリーはスケートリンクを見下ろす位置にあります。二十数年前のバブル期には日本の大手不動談会社がロックフェラーセンターのビル群を買収し随分不評を買ったものです。その後バブルが破裂しビル群はそのほとんどが大損を出してアメリカに売却されました。今では想像さえ難しい話です。

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2009年10月 7日 (水)

東京と関西

Lantana
  私は阪神間で生まれ育ちましたがこれまで生きてきた70年近い年月のうち二十五年足らずを阪神間で、三十数年を東京で過ごしてきました。期間では東京が関西より長いのですが私は紛れもない関西人です。皆さんも良くご存じとは思いますが、関西と東京で長く生活してきた私は両者の違いを特に強く感じます。

  まず第一は何と言っても「言葉」です。テレビなどで関西弁はおなじみの言葉ですが関西弁を形だけ真似てイントネーション(抑揚)は標準語のままという間違った(?)関西弁をテレビドラマ等でもよく耳にします。これが我々には大変耳触りで興ざめです。逆に我々関西人が標準語を話した場合、東京の人はわりに寛容で、何とか受け入れてくださいます。でも私が関西出身の方の前で標準語でしゃべろうとしますと瞬く間に「あなたのご出身は関西ではありませんか?」と言われてしまいます。それほどに関西の人は言葉の抑揚に敏感です。日本語は世界の言語の中でも特に抑揚の少ない言葉と言われています。その意味では関西弁はより外国語に近いと言えるかもしれません。一説には平安時代の日本語は今よりもっと抑揚のない言語だったそうですが、中国や韓国の帰化人などの影響で次第に抑揚が生まれたそうです。

  関西と関東でエスカレーターの乗り方が違うことは皆さんご存知だと思います。エスカレーターで歩かずに止まって乗る人は関東では左に、関西では右に立ちます。なぜこのような違いができたのかいろいろな説があるようですがよくわかりません。世界的には関西の方式が一般的なようです。外国は車が右側通行の国が多いので追い抜き車線が左となり関西と同じ形になります。でも日本は車が左側通行ですから関東の方式の方が理にかなっているようにも思います。蛇足ですが東京に比べて関西では「動く歩道」で歩いている人の割合が圧倒的に多いように思います。関西人の方がせっかちのようです。

  最後にもう一つ関西人と東京人の決定的な違いを。先日、テレビで、水戸黄門でおなじみの「葵の御紋の印籠」を街角で突然通行人に見せてどんな反応をするかを実験していました。関東の人はほとんどの人が「これは水戸黄門の印籠ですね」とごく常識的な反応をしていましたが、関西人(大阪人と言った方が正しいかもしれません)はほとんどすべての人が両手を前に突き出して「ハハー」とひれ伏すジェスチャーをして見せていました。これには思わず笑ってしまいました。「お笑いの関西」の面目躍如と言ったところです。

  このほか食べ物も随分違いがあります。狭い日本ですが異なった文化が共存していることに改めて感心しています。

 写真の花は「ランタナ」です。伊豆半島の城ヶ崎で写しましたが街角でも見かけることがあります。和名は「七変化」で、その名の通り花が咲いてから花の色が中心部から外に向かって花の色が変化します。この花は少し地味な色をしていますがもっと鮮やかな色のものもあります。

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2009年7月29日 (水)

「雪形」をご存知ですか?

Almond    季節外れの話題で恐縮ですが、「雪形」をご存知でしょうか? 雪におおわれた山に春が来て雪がとけだしたときに残雪の白と雪がとけてあらわれた岩肌の黒のコントラストが織りなす独特の文様のことです。私も山好きの友人から聞くまで実は知りませんでした。毎年同じ場所に同じ頃、同じ形が現れるのでその文様に色々な名前をつけて、毎年その形が現れるとそれを田植えなどを始める時期の目安にしていたそうです。

  有名なものには、常念岳の「常念坊」、白馬岳の「代掻き馬」などがあるそうです。雪形が多くみられる長野県安曇野市のホームページは本場だけに色々な「雪形」が載せられていて大変楽しいページです。

  雪形が現れるの見て仕事のリズムをつかんでいた農民の姿はどこか、砂漠で星空を眺めて色々想像をめぐらし星座を考え出した遊牧民を思い出させます。友人によりますと「雪形」には自分流の「マイ雪形」を見つけ出す楽しみもあるのだそうです。夢のある話です。でも、遠方から出かけてきれいな「雪形」を見ることは、毎日山を眺めている地元の人には出来ても、結構至難の技のようです。


  
  写真は神代植物公園(東京都調布市)のアーモンドの花です。以前(2008年11月)ブログに書きました様に、アムステルダムのゴッホ美術館の「アーモンドの花咲く小枝」の絵に魅せられてぜひ見たいと思い、桜の満開のころに出かけてきました。樹は二本でそれも道から少し奥まったところにひっそりと植わっていて公園の方に教えていただいてようやくみつけることができました。ピンクの本当に愛らしい花でした。写真のバックに写る葉は別の樹のものでアーモンドは桜と同じように花が散ってから葉が出ます。それもそのはずアーモンドはバラ科サクラ属の樹木でした。

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2009年6月 4日 (木)

オランダ、ベルギーの旅に出かけました(2)

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  遅くなりましたがオランダ、ベルギー旅行の続編です。

  アムステルダムの街は何と言っても運河の多いのが特徴ですが、自転車の数が(話には聞いていましたが)あまりに多くて驚きました。駐輪場の数も半端ではありませんが運河に架かる橋の欄干にもチェーンでたくさんの自転車がつながれていました。街を歩いていても車より猛スピードで走ってくる自転車に気をつけなければなりませんでした。

  オランダはファストフード天国と呼ばれるだけあって、コロッケの原型といわれる「クロケット」、塩漬けの生のニシンをそのまま尻尾を持って口の中に落とし込んで食べる「ハーリング」、豆や野菜を煮込んだ「エルテンスープ」、「パンケーキ」など楽しい食べ物がたくさんあります。一方ブリュッセルはカフェ天国でほんの数十メートルごとにたくさんのしゃれたカフェがありました。ベルギーワッフル、ベルギーチョコレートは特に有名ですね。

  今はベルギーの有名なチョコレート店はほとんど日本に支店を出すようになりました。グランプラスの近くにある「ギャルリー・サンテュベール」は150年以上前に作られた何とも美しいアーケードですがそこに超有名なチョコレートショップが軒を連ねているのはさすがチョコレート王国ベルギーという感じです。「ゴディバ」や「ノイハウス」、最近では「ピエール・マルコリーニ」などが日本でも有名ですが、ベルギーでトップクラスといわれている「コルネ・ポルトロワイヤル」はまだ日本ではあまり知られていません。


  写真は「ギャルリー・サンテュベール」の中にある「コルネ・ポルトロワイヤル」の店です。柱や飾窓はアーケード全体で統一されています。

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2009年3月22日 (日)

豪華客船「クイーン・メリー2」が日本にやってきました

Qm2       英国キュナード・ラインの豪華客船「クイーン・メリー2(QM2)」号が横浜に入港しました。ご存知のようにいつもはベイブリッジの下をくぐって山下公園そばの大桟橋に入港するのですが、何と15万トンのこの巨大客船は高さが高過ぎてベイブリッジの下を通ることが出来ないのです。それでやむなく今回はベイブリッジの外にあるコンテナー埠頭の大黒岸壁に入りました。残念ながら雨でしかも風が強くて写真も少し船体がかすんでいましたが、さすが伝統ある英国の客船らしい黒の船体は素晴らしいものでした。

  クイーン・エリザベス2(QE2)はすでに進水してから40年を超え老船の域に入っています。私が客船に興味を持ち始めた頃はどちらもまだ一世号が活躍していて両船とも8万トンと当時の世界最大の客船でした。先代のクイーンエリザベス号は40年くらい前に香港で改装中に火災を起こし残念ながら沈没してしまいました。当時このことを新聞で見てがっかりしたのを覚えています。  一方、先代のクイーンメリー号も引退してから40年以上になりますがこちらは幸せなことにホテル兼博物館に改装されロスアンゼルスの南、ロングビーチの海岸に係留されています。 もう25年以上も前に仕事でロスアンゼルスを訪問した時になんとか時間を作って見に行きました。このブログで以前、「スプルース・グース」のことを書きましたがクイーンメリーはそのすぐそばにありました。「クイーンメリー・ホテル」は今もあるようですが「スプルース・グース」は東海岸のオレゴン州エヴァーグリーン航空博物館に移されて余生を送っているようです。

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2009年3月14日 (土)

ゼロ系新幹線とブルートレイン

Lilly
   新幹線のゼロ系列車がその姿を消したのに続き東京から西に向かう寝台列車、ブルートレイン「富士」「はやぶさ」が時刻表から消え去りました。大変さびし感じがしますが時代の流れ、立派にその務めを果たしてリタイヤしたということでしょう。

  新幹線はゼロ系が消えても今もどんどんと新型車が出て進歩をつづけていますが一方、多くの人々に親しまれ続けてきた「はやぶさ」や「富士」という列車がこれを最後に世の中から消えてしまうわけですから、ブルートレインにまつわるいいろいろな思い出を持つ多くの人がさびしさを感じておられることでしょう。ブルートレインに乗って故郷から就職先に向かった方、ブルートレインで受験のために旅をした人等はいろいろなことを懐かしく思い出しておられることでしょう。

  かく言う私は、入社した時に東京で行われた入社式のためにゼロ系新幹線に乗って関西から上京しました。前年の秋に新幹線が開通して半年、もちろん私にとっては初めての乗車でした。確か、当時はまだ東京大阪間が4時間近くかかったと記憶しています。会社に入ってからは出張でよくブルートレインのお世話になったものです。最初のころは今と違って寝台が3段でした。下段はまだいいのですが中段や上段は天井が低くてベッドの上に座ることもできませんでした。列車から見る夜明けの風景、真夜中に目が覚めた時に聞く独特の警笛の音など懐かしさでいっぱいです。「本当に御苦労様でした」と言いたいと思います。


  写真は埼玉県所沢市にある「西武ゆり園」の満開のゆりの花です。もちろん人工的に植えられたものですがなかなか見事で、色とりどりのゆりが咲き競っている華やかな景色を見て心が和みました。

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2008年11月15日 (土)

オランダ、ベルギーの旅に出かけました(1)

Amsterdam    秋のブリュッセル、アムステルダムを旅行してきました。どちらの街もにしっとりと落ち着いて文化レベルの高いヨーロッパの都市のよさが満喫できました。
  アムステルダムは小田切訓さんの絵画であこがれていましたが、絵そのままの運河と古い建物、黄葉の木々の景色に感動しました。

  今度の旅行では見たいと思っていた名画、レンブラントの「夜警」(アムステルダム国立美術館)、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」(同)、ゴッホの「アーモンドの花咲く小枝」(アムステルダム、ゴッホ美術館)、ブリューゲルとルーベンスの名画(ベルギー王立美術館)などを短期間で一度に見ることができ幸せでした。中でも一番あこがれていたのがゴッホの「アーモンドの花咲く小枝」でした。

  生前に(信じられないことですが)たった1枚しか絵が売れなかった貧しいゴッホをずっと援助してくれていた弟のテオに初めて子供が生まれるのを祝って描いた絵です。すでに精神を病んでいた時に描いたものとは思えないような情熱と愛情が満ち溢れた絵でした。バックの青色がこれまで写真で見ていたのより濃い色で大変美しく大感動しました。

  アムステルダムもブリュッセルも銀座や原宿と違って有名なブランドショップのオンパレードが全くなかったのはうれしい限りでした。このことが両都市を一層落ち着いた雰囲気にしているように思いました。


  
  写真は小雨に煙るアムステルダムの運河です。雨量は日本より少ないのですが時々短時間急に小雨が降ることがあります。気持ちよさそうに白鳥が泳いでいました。アムステルダムが運河の街という知識は持っていましたがブロック毎にこんなに多くの運河があるとは思っていませんでした。木に隠れてよく見えませんが運河沿いは数百年を経た古い美しい建物が続いています。

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2008年10月 9日 (木)

フェスティバル・ホール

Metrosideros_polymorpha
  「フェスティバルホール」という劇場の名前は関西の人たちにとっては大変なじみの深いものです。
先日の新聞にその「フェスティバルホール」が50年目を迎え来年からビルもろとも全面的に建て替えられ2013年に新しく生まれ変わるということが書かれていました。

  1950年代、ようやく日本も戦争の傷が癒えつつあったとはいえまだ世界に誇れるコンサートホールを持つほどの余裕はありませんでした。1958年東京に先駆けて音響効果が優れた本格的なコンサートホールを朝日新聞社が大阪市北区中の島(この場所は私が小学生の頃には「朝日アリーナ」というアイススケートリンクに使用されていました)に完成させました。
  東京上野に戦後初めての本格的なコンサートホールとして東京文化会館が誕生したのが1961年ですから、当時関西の音楽愛好家は東京にはない立派なコンサートホールを大阪が有していることを誇りに思っていました。

  毎年春には「大阪国際フェスティバル」という音楽祭が催され、世界の有名な演奏家がここで演奏しました。私も学生時代に行列に並んでチケットを手に入れて聞きに行ったものです。真紅の豪華な客席を懐かしく思い出します。もう50年も経ってしまったのですね。


 写真の奇妙な形の赤い花は「オヒア・レフア」という名前でホノルル フォスター植物園で写しました。
花のように見えるのはおしべが集まって房状になったものです。ハワイの伝説では恋人との仲を火の女神ペレに引き裂かれた娘オヒアが化身してなった赤い花が、この花だと伝えらているそうです。


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2008年2月 1日 (金)

ハンドボールの思い出

Spirit_of_st_louis
  北京オリンピックの予選をめぐって「中東の笛」が話題になった騒動も、結果的に「ハンドボール」という競技が世の中によく知られるようになったという副次的な効果を残してひとまず沈静化しました。いずれにしてもスポーツの結果まで産油国の王族がお金の力で動かそうとしているようでなんとも後味の悪いものでした。

私は中学時代に時々大学生の「ハンドボール」を見に行っていましたが最近の競技とは相当様子が違っていて、競技は屋外のサッカーやラグビーのグラウンドで行われていてコートの広さも今のサッカーやラグビーなどと同じでした。ゴールポストもサッカーと同じものだったと思います。
大事な試合は野球場でナイター照明の下で行われていました。選手の数も今のように7人ではなく、サッカーと同じ11人で行われていました。
今のハンドボールはスピード感があってこれはこれで面白いと思いますが以前の競技はサッカーと同じような迫力があって見ごたえがありました。

いつから今のようなハンドボールが主流になったのだろうと興味を持ちネットで調べてみました。
ハンドボールはやはり11人制と7人制の二種類があり発祥は7人制のほうが古いようですが、日本には11人制が先に伝わったようです(1922年)。ベルリンオリンピックで初めて正式競技になっていますがこれもも11人制で行われました。

11人制のハンドボールグラウンドの大きさは調べてもよくわかりませんでしたがサッカーと同じだとすると、今のハンドボールコートより長さは2.5倍程度、面積は5倍程度あったということになります。
1960年前後から世界的に11人制に代わって7人制が主流になり始めたようです。

スポーツ競技は時代とともにルールが変わることはよくありますがバレーボールの9人制から6人制への変化に比べてもハンドボールの変わり様はまるで別のスポーツになったような感じさえします。どこかで11人制のスケールの大きな競技をもう一度見てみたい気持ちになりました。


 写真はワシントンの「スミソニアン航空宇宙博物館」に展示されている、スピリット・オブ・セントルイス号の実物です。ご存知のようにチャールズ・リンドバーグが1927年にニューヨークからパリまでの単独無着陸飛行に成功した飛行機です。彼は34時間に近い孤独な飛行の後パリの街の灯を見て、「翼よ、あれがパリの灯だ!」と叫んだと伝えられていますが、これは作り話という説が有力なようです。 ワシントンの国会議事堂からワシントン記念塔の間のモールと呼ばれる広大な広場の周りにはスミソニアン財団が運営する多くの素晴らしい博物館や美術館が並んでいます。どこも入場料は無料です。

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2007年11月29日 (木)

美瑛から富良野の美しい風景

Biei   美瑛の雄大な丘陵は私の最も好きな風景の一つです。だらかな波状の丘陵を色彩の異なる作物や花が、パッチワークのように彩る風景は日本のものとは思えません。素人の私にはその美しさを写真に収めるのが困難ですが、美瑛の風景を撮り続けた写真家、故前田真三さんの写真集を見ていますと感動をおぼえます。中でも彼の代表作である「麦秋鮮烈」と題する写真は、濃色の夕立雲の下の赤麦の畑を落日間際の太陽が真っ赤に照らし出した瞬間を捉えた素晴らしい写真です。その写真は前田さんの著書で見て頂かなくてはなりませんがネット上でも垣間見ることが可能です。(ポスターをクリックすると拡大できます)

 美瑛から「花人街道」と呼ばれる国道237号線を南に下るとラベンダーで有名な富良野があります。ちょうど「富田ファーム」のラベンダーが満開のときに訪れて私が撮った写真はご紹介しましたが富田ファームのオーナー、富田忠雄氏が現在のような素晴らしいラベンダー畑を作り上げるまでの苦労話をあるTV番組で紹介していました。

 20歳の頃にラベンダーの美しさに魅了され栽培を始めた冨田氏は昭和30年後半からの香料としてのラベンダーオイルの需要の急増により栽培面積を増やしてきました。ところが昭和40年代の終わりに合成オイルの普及などで一気に需要が落ち込み、昭和50年にはラベンダーの栽培をあきらめざるをえなくなりました。ある日、一日伸ばしにしていたラベンダー(ラベンダーは草ではなく木なのです)の伐採をトラクターで始めたところ「ギャー」というようなラベンダーの株が発する悲鳴を聞き、それ以上伐採を続けられなくなった富田氏は家族と相談してもう一年だけ栽培を続けることにしたのです。

 ところが驚いたことにその年の7月になり、ラベンダーが開花すると三脚を担いだカメラマンが次から次へと畑にやってきました。その年の国鉄(まだJRになる前でした)のカレンダーにラベンダー畑が紹介され、それを見た人が大勢写真を撮りに来たのでした。そのうちある女性がラベンダーで「におい袋」を作ることを勧めてくれたりしてラベンダー畑は見事に生き返ったというわけです。だから今でも「富田ファーム」は入場料が無料で、「におい袋」やラベンダー石鹸などの売り上げで運営されているのです。


 写真は美瑛の「パッチワーク」の一部です。訪れた季節が夏なのであまりいろどりがよくないこともありますが美しい風景写真を撮ることの難しさを思い知らされました。

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2007年10月15日 (月)

客船の話(2)

Amsterdam_2
 久しぶりに横浜港に客船を見に出かけました。今回はHolland America Lineの「アムステルダム号」(61,000トン)です。昔なら6万トンの客船といえば世界で最も大きな船の仲間でしたが、今や「中の大」程度になってしまいました。

 30年位前には先代の「アムステルダム」や「ロッテルダム」(もちろん既に引退しています)が時々入港していました。今回のアムステルダムは最近には珍しく船体が黒色中心で、写真でご覧になれるように煙突部分は特徴のある昔のロッテルダムの形そのままで懐かしさを感じました。前から見ると私の好きな客船の形でしたが後ろ側に回ってみると最近の超大型船に見られるように高層ビルの一部のような垂直に切り立った形をしていてがっかりしました。やはり客船の後部は丸い形がいいと思うのですが・・・。

 山下公園では船員さんたちが撮った写真が野外に展示されていました。そこで船腹に南国の美しい花が描かれたクルーズ船がハワイで就航していることをはじめて知り早速ネットで調べてみました。ノールウェイジャン・クルーズ・ライン(ノールウェイ)がハワイの島巡りクルーズ(7日間)で運行している「プライド・オブ・アロハ」、「ノールウェイジャン・ジェム」などです。いずれも8万トン近い大型客船ですがリゾート地のクルーズ船らしくて心がうきうきするような船体です。黒や白のどっしりと落ち着いた船体とは違った魅力があります。

 2009年の春には待望の「クイーン・メリー二世号」(15万トン)が横浜に入港することが決まりました。この船は現時点では世界最大の船と言われています(もしかすると今頃はすでにこれより大きな船が就航しているかもわかりません)。でも残念ながら大きすぎて横浜港の入り口のベイブリッジの下を通過することが出来ず、やむなく近くの大黒ふ頭に入港するそうです。 ニュースによりますと2009年秋就航の予定でなんと22万トンという超超大型客船が現在建造中なのだそうです。客船が私からどんどん遠ざかっていくようなさびしい気がしています。

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2007年9月10日 (月)

私のテレビ史(その2)

Sevillia   初期のテレビ放送(1950年代)で思い出す番組は「のり平喜劇教室」、「お笑い三人組」、などの、今では「バラエティー番組」と呼ばれるものや「事件記者」、「日真名氏飛び出す」、などです。特に土曜の夜(当時は週休二日ではありませんから)は娯楽の少なかった時代、楽しみな番組が揃っていましたので首を長くして待っていたものです。ドラマ「私は貝になりたい」のフランキー堺の名演技も記憶に残ります(最近再放送されていました)。

  1959年に皇太子(今の天皇)のご成婚のパレードが中継され、テレビの普及率が一挙に上がりました。1960年代に入って番組の質も向上してきましたしカラーテレビの本放送も始まりました。白黒テレビの画面の隅に「カラー放送」の文字が表示されているのをうらやましい気持ちで見ていたものです。

  NHKがいわゆる「大河ドラマ」を開始したのが1963年(昭和38年)でした。第一作の「花の生涯」、第二作の「赤穂浪士」は毎週欠かさず見たものです。「赤穂浪士」で宇野重吉(最近益々お父さんに似てきた寺尾聡は息子さんです)が演じた狂言回し、「蜘蛛の陣十郎」の名演技は今もよく覚えています。  1963年と言えば、11月23日の午前、米国からリレー1号という通信衛星を使って初の衛星中継が行われるというのでテレビの前で待ち構えていますと、その最初の画面で「ケネディー大統領暗殺」という衝撃的なニュースが飛び込んできて仰天したことを鮮明に思い出します。

  翌1964年東京オリンピックが開催され我が家もカラーテレビになりました。開会式の10月10日は土曜でしたがテレビ放送を見るために午前中の仕事を終えて(当時は土曜は午前中だけの半ドンの会社が多かったのです)早々に帰宅するサラリーマンで電車が大混雑だったことを思い出します。

  1969年7月のアポロ11号月面着陸の実況放送、1972年の赤軍派浅間山荘事件の中継など忘れられない放送がいくつもあります。

  私には印象深く、いまだに大変気になっている番組があります。記憶があやふやですがまだ白黒テレビの時代の番組だったと思います。ブラジルから帰国する移民船の航海を写したドキュメンタリーですが、成功して故郷に錦を飾る大勢の人々の中にあって夢破れ、傷心で一人帰国する男性の姿が細かく描かれていました。番組が「今回の航海日誌には(これだけ色々な人生のドラマの詰まった航海だったが)『異常なし』と結ばれていた」という『西部戦線異状なし』と同じような言葉で締めくくられていたのが印象にあります。是非もう一度見たいものです。
 


  写真はセビリア大聖堂です。ご存知の方も多いと思いますが、この街から少し離れた人口2万人の小さな町に「ハポン」(スペイン語で「日本」の意味)さんという苗字の方がなんと600人も住んでいるそうです。スペインでは両親の姓を二つ並べたものが自分の姓になるそうなので、中には「ハポン・ハポン」さんという方もかなりいらっしゃるそうです。実はこの町には戦国時代、仙台藩からあの有名な支倉常長率いる慶長遣欧使節団が訪れておりその中の何人かはそのままここに住みつきました。この人たちの子孫がハポンさん達だと言われています。彼らは自分たちが日本の侍の子孫であることに大変誇りを持っているとのことです。何か心のあたたまるお話です。

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2007年7月13日 (金)

私のテレビ史(その1)

Coronado
ANAホテルズ    団塊の世代以降の若い方々は多分、物心がついたころにはすでに世の中にテレビが存在していたと思います。今や私だけでなく多くの人がテレビのない生活は考え難いのではないでしょうか。

 しかし日本でテレビ放送が本格的に始まってからまだ高々50年余りしか経っていません。この間、モノクロからカラーテレビ、デジタル放送、ハイビジョン放送と随分長足の進歩をしたものだと思います。その発展の過程をずっと見ることが出来たわれわれの世代は幸運だったと思います。  

 NHKがテレビの本放送(もちろんモノクロです)を開始したのは昭和28年(1953年)2月で、私がちょうど小学校の卒業間近のころでした。私はたまたまその日、父に連れられて大阪梅田のデパートに行っていてそこで本放送開始の瞬間(といってもNHKの会長らしき人の挨拶と三番叟の舞踊でしたが)を目にしました。調べてみますとその時に受信契約を結んでいた人(これがその時に一般家庭にあったテレビの台数に近いと思いますが)は900人足らずだったようです。それもそのはずで、その時に売り出されていた国産唯一のテレビ受像機は1台17万5千円だったとか。平均賃金の変化(現在は当時の約30倍)から推定してみますと今の価格だと1台500万円もしたということになります。とんでもない値段です。それももちろん白黒テレビでサイズは14インチという小さなものです。

 その半年後から順次、民放各局の放送も開始されました。最初に国民をテレビに釘付けにしたのはプロレスでした。力道山がシャープ兄弟などの外国人選手を空手チョップでなぎ倒す姿は大変な人気でした。とはいうもののテレビを見るには繁華街や駅前に設置された街頭テレビを下から見上げるか、近所のお金持ちのお宅にお邪魔してテレビを見せていただくかのどちらかしかありませんでした。私も近所のお宅で興奮して見物したものでした。

 数年してテレビの値段も安くなったのか、我が家にもテレビがやってきました。テレビの台は4本の脚がついていて見ていないときは刺繍された立派な緞帳(どんちょう)のようなもの(これはテレビの付属品として付いていた様です)がブラウン管の前に垂れ下がっていてそれをおもむろに上に上げてテレビを見るのです。テレビが茶の間の主役だったのです。

 放送時間は限られていて夕方は5時ごろから始まったように記憶しています。放送開始の少し前には「オープニングメロディー」という、ピアニストがいろいろな曲を弾くだけの番組がありました。放送開始を待ちきれない私はその番組まで熱心に聴いていました。何とも懐かしい思い出です。  


 いかにもリーゾートホテルらしいたたずまいの写真のホテルはカリフォルニア州サンディエゴの太平洋岸にある「ホテル・デル・コロナード」です。赤い独特の形の屋根が白い砂浜に映えていました。マリリン・モンローが主演した映画「お熱いのがお好き」の舞台となったホテルです。またその後米国海軍を描いた映画「トップガン」の舞台にもなりました。サンディエゴ港が米国第七艦隊の本拠地だからです。

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2007年6月14日 (木)

シュリーマンのトロイ遺跡発掘

Sacre_coeuru
 「トロイの遺跡」(トロイア、トロヤとも呼ばれます)を発見したハインリッヒ・シュリーマンという19世紀のドイツの考古学者がいます。彼は小さい頃に読んだギリシャ神話のホメロスの物語に大変感動しました。ギリシャとトロイが戦った「トロイ戦争」で撤退したギリシャ軍が中に密かに戦士を収容して戦場に残していった巨大な「トロイの木馬」を、勝ったトロイ軍が戦利品として城内に持ち込み戦勝の祝杯を挙げて寝入った夜中に木馬から戦士が出て攻め込みギリシャ軍を勝利に導いたという話はご存知の方も多いと思います。
  当時はこの話に出てくる「トロイの戦争」はホメロスの創作した架空の物語だと考えられていました。しかしシュリーマンは古代都市「トロイ」が実在するに違いないと信じ、いつの日かそれを自分手で発見したいと考えました。

  彼は若い頃に貧しい境遇から苦労の末、貿易業で巨万の富を築き、40歳を過ぎて夢であったトロイの発掘を始めました。そして10年間も発掘を続け、ついに現在のトルコでトロイの遺跡を発見しました。そして「アガメムノンのマスク」など貴重な古代ギリシャの宝物を多数発掘しました。

  小さい頃の夢を抱き続け、その目的のために一生懸命仕事をして周到な準備をし、その後ついにその夢を成し遂げるという感動的な人生です。(「古代への情熱-シュリーマン自伝」村田数之亮訳、岩波文庫、「古代への情熱」池内紀訳、小学館) シュリーマンは、一方で「発掘した遺跡の一部を私物化した」とか「子供の頃の夢という話は後で作られたものだ」などよくない噂もあり、かなりの真実を含んでいるようですがあまり信じたくない話です。

  現在の日本には財の蓄積だけを目的としてマネーゲームで巨万の富を稼ぎ、いろいろ取りざたされたHoさんやMuさんなど感心しない輩が次々出てきます。この人達の夢の無さをシュリーマンと比べるとさびしい気がします。先日テレビで、自宅のパソコンを使ったデイトレードで大金を稼いだ若者が、「時間が惜しいから」と言ってパソコンに向かいながら昼食のインスタントラーメンをかき込んでいるなんとも夢の無い姿を見て背筋が寒くなる思いがしました。


  写真はパリ、モンマルトルの丘の上に建つ「サクレ・クール寺院」です。その白亜の姿は青空に映えてすばらしく、エッフェル塔と並んでパリの代表的な風景になっています。私が最も好きな教会のひとつです。一見するとインドの「タージマハール」にも似ていてヒンズー教かイスラムの寺院のように見えますがキリスト教の教会です。画家を志す人達が自分の絵を売ったり、似顔絵描きをしているモンマルトルの丘の先にそびえるこの尖塔は絵になる風景です。

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2007年6月 7日 (木)

イギリスを旅行してきました(2)

Cotswolds
 私はミュージカルが好きです。ブロードウェイ・ミュージカル、特にリチャード・ロジャース(作曲)、オスカー・ハマーシュタインⅡ世(作詞)のコンビによる「オクラホマ」、「回転木馬」、「南太平洋」、「王様と私」、「サウンド・オブ・ミュージック」などは優れた音楽ですばらしいと思います。フレデリック・ロウ(作詞・作曲)の「恋の手ほどき」や「マイ・フェア・レディー」も好きです。ミュージカルは二度ほどブロードウェイの舞台も見ましたが、どちらかと言うと(言葉の問題も大きいのですが)セットがしっかりした「ミュージカル映画」が好みです。

 今回、ロンドンでコヴェントガーデン・マーケットに行く機会があり、ここがオードリー・ヘップバーン主演の映画「マイ・フェア・レディー」の冒頭の場面に出てくる場所だということを思い出しました。ご存知の方も多いと思いますが「マイ・フェア・レディー」はバーナード・ショウの戯曲「ピグマリオン」を原作とする1964年度アカデミー作品賞受賞作で、ロンドンの下町訛り「コクニー」を話すコヴェントガーデンの貧しい花売り娘オードリー・ヘップバーン扮するイライザを言語学者のヒギンス教授が言葉や行儀作法を徹底的に仕込んで社交界にデビューさせるという物語です。ハイドパークの東側にロンドンの高級街「メイフェア」があり、今回私は偶然にその近くのホテルに滞在しました。「マイ・フェア・レディー」というのは「メイフェア」をコクニー訛りで「マイフェア」と発音するところからこの題名がついているそうです。

 コヴェントガーデンはロンドンの中心部に近いところにあり有名な「ロイヤル・オペラハウス」がありますが、なんとそのすぐそばに1970年代まで青果市場があったそうです。今は小さなみやげ物屋などが100軒以上も並び、ストリート・パフォーマンスがロンドンでここだけ許可されているという一大マーケット「コヴェントガーデン・マーケット」に生まれ変わっています。

 映画「マイ・フェア・レディー」の冒頭の場面はオペラ座の公演がはねて紳士淑女たちが家路につこうとする中でコクニー訛り丸出しで、青果市場を行きかう野菜を積んだ荷車をよけながら花を売り歩くイライザが登場します。青果市場とオペラハウスのどちらが先にできたのかわかりませんが何故この二つが隣接して建てられたのか不思議です。建物などの雰囲気は今もあまり大きく変わっていない様に思います。もう一度ビデオで映画を見て何だかうれしくなりました。イライザとヒギンスが初めて出会う場面は前回写真をお見せした「セント・ポール大聖堂」の前という設定になっています。

 余談ですが「ヘップバーン」さんと、ヘボン式ローマ字を考案した「ヘボン」さんというのは同じ苗字(Hepburn)であることをご存知でしょうか。本当の発音は両者の中間(どちらかというとヘボンに近い)と言っていいでしょう。


 写真は世界一美しい村と称される「コッツウォルズ」(Cotswolds)の家並みです。どの家も近くで産出するライムストーン(石灰岩)で作られており、村全体が「はちみつ色」と呼ばれる何ともいえない暖かい雰囲気をかもし出しています(写真の壁は直前の小雨で少し黒ずんで見えます。乾いているときはもう少し薄い茶色です)。英国の田園風景を描いた19世紀の画家にジョン・コンスタブルがいますが、彼の絵と同じような風景が延々と続いていました。

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2007年6月 2日 (土)

聖地巡礼展

St_paul
用があって関西に行ったついでに「司馬遼太郎記念館」と万博記念公園内の「国立民族学博物館」に行ってきました。

 「司馬遼太郎記念館」には司馬さんの蔵書約4万冊がずらっと並べられた書棚があり、中でも各国語の辞書類が随分多くあるのに驚きました。執筆するときはそのテーマに関係のある文献を蔵書の中から選び出して自分の書斎(これもガラス越しに見ることができます)の周りの書棚にずらっと並べて仕事をされたそうです。我々が何気なく読む一冊の本を書き上げるために使われたエネルギーの大きさを改めて感じました。  

 「国立民族学博物館」では「聖地巡礼展」が行われていて、世界各地の巡礼に関する資料が集められていました。中でもスペイン北部の「サンチャゴ・デ・コンポステーラ」巡礼は一人の巡礼者の旅をドキュメンタリー風に取り上げていました。キリスト教の最初の殉教者といわれる聖ヤコブ(スペイン語名:サンチャゴ)の墓があることで有名なこの教会を目指してフランスからピレネー山脈を徒歩で越えて800Kmにも及ぶ道のりを毎年数十万人の人が荷物にお守りの帆立貝の殻をぶら下げて主に徒歩でやってきます。終着地のサンチャゴ・デ・コンポステーラ大聖堂でのミサの風景は私もテレビで何度か見ました。長旅の巡礼者の匂いを消すために天井から吊るされた大きな香炉に香を焚いて大きく揺らす光景は圧巻です。聖地に向かってひたすら歩くことで自己を振り返り、何か新しい活力を得て元の生活に戻っていくのでしょう。


 写真はロンドンのセント・ポール大聖堂です。1981年にダイアナ妃が結婚式を挙げた教会です。中央のドームの天井のモザイクは見事でした。スペインではモスクや大聖堂の内部、美術館まで自由に写真が撮れました(フラッシュは禁止のところが多いです)。しかし堂内が暗いため天井を撮ったものはほとんど手振れを起こしていました。そこで今回は手振れ防止付きデジカメを持って出かけたのですが英国は残念ながらほとんどのところが日本同様撮影禁止でした。

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2007年5月27日 (日)

イギリスを旅行してきました(1)

Kingusari_3

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  以前、仕事で二度ほど訪れたロンドンの街は、季節が冬だったこともありあまり良い印象は持っていませんでした。今回は初夏で、天候にも恵まれ「明るくて清潔な街」というイメージに変わりました。歩いている街の人はみんなオシャレでした。

 大英博物館やナショナルギャラリーといった世界でも有数の博物館、美術館の入場料が無料とさすが大英帝国だと思いましたが、物価の高さには本当にびっくりしました。円安ということもありますがどうもそれだけではない様に思います。なにしろ地下鉄の最低運賃が4ポンドですから日本円ではほとんど1000円です。(もっとも市の中心部だけは一日乗車券が1500円くらいで売られていますが)
 パブの盛況ぶりはうわさ通りでしたが、そこで軽い夕食をとりますと(あまり飲まなくても)すぐに一人5000円になります。見ていますと現地の方たちはほとんど何も食べずにひたすら飲むだけの人が多いようです。これは高いからでしょうか、それともこれが本当のパブの姿なのでしょうか。

 大英博物館では長い間ずっと見たいと思ってきた「ウルのスタンダード」(メソポタミヤ時代のウルの王墓で発見された旗章)と「ロゼッタストーン」の実物を見て改めて大きな感動を覚えました。ギリシャのパルテノン神殿の破風(エルギン・マーブルと呼ばれています)も興味はありましたが、エルギン卿が賄賂をばら撒いてギリシャの役人に目をつぶらせてパルテノン神殿から剥ぎ取って来たという様な話もあるようで興がさめてしまいました。
 でも国によってはそのまま放置しておくと盗掘や破壊にあって世の中から消えてしまう可能性もあるという意見を聞くと、なるほどそういう考え方もあると思いました。それに何より我々観光客にとっては一箇所で色々なものをまとめて見られるというのは幸せなことです。

 写真はシェイクスピアが生まれた町として有名なストラットフォード・アポン(オンとも言います)・エイボンの町で古い町並みを背景に「キングサリ」(英名Golden-chain、和名キバナフジ)の花を写しました。キングサリはぜひ一度見たいと思っていた憧れの花です。見かけによらず毒をもつ植物なのだそうです。

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2007年5月12日 (土)

考えさせられた新聞記事

Shaga
日比谷花壇  少し前にちょっとショッキングな新聞記事(朝日新聞2007.1.29)を見つけました。藤本弘一郎さんという愛媛県の医師が「75~84歳では、女性は夫がいる方が、いない場合に比べて死亡リスクが2.02倍に高まった。一方、男性は妻がいる場合、いない場合に比べて0.46倍に下がっていた。60~74歳でも同様の傾向が見られた」という研究結果です。これにはちょっと考えさせられました。男女の平均寿命差に幾分かの影響は与えているのでしょう。

 リタイヤ後は家にいる時間が長くなりますので知らず知らずのうちに男性が奥方にストレスを与えてしまうケースが多いということでしょう。一方、男性は配偶者に先立たれると食生活が乱れ、精神的なショックも加わって寿命をちじめてしまうということのようです。藤本医師も「夫の依存が妻に負担をかけている一方で、妻に先立たれると夫は身の回りのことを助けてくれる存在を失い、逆に死ぬ危険性が高まる。夫が家事などを覚えて自立することが大切だ」と結論づけておられます。ご同輩の皆さん、お互いに藤本先生の調査結果が少しずつ改善されるように努力しましょう。

 勝間和代さんという経済評論家がご自分のウエブサイトで「夫に言われて一番頭にくる言葉」を募集したところ、何と『手伝ってあげようか』だったということです。これには思わず「ウーン」とうなってしまいました。男は親切で言っているつもりでしょうが明らかに「君の仕事だけれどやってあげようか」と恩着せがましく響くのです。このあたりも相手の気持ちに配慮するのに大いに勉強になる調査結果だと思いました。


写真は近所の植物園で撮った「しゃが(著莪)」の花です。英名は "Iris japonica"というそうで日本生まれのアイリス(あやめ)の仲間ですね。ちなみに「シャガ」というのはギリシャ語で「虹」の意味なのだそうです。4~5月に咲きます。

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2007年5月 5日 (土)

「60年安保」世代

Hanakaido   「死にたくもないが、生きたくもない」(小浜逸郎著 幻冬舎新書)という本を、題名につられて購入して読みました。「人生80年時代になって久しいが、昔に比べて老いが先延ばしされたわけではない。昔も今も60歳の人の老いの程度は似たようなもの。今はその老いを迎えてから更に二十年を醜い姿になるまで生き続けなければならない」というのが著者の考えです。同感だと思う部分もかなりあります。でもこう考えてしまうと定年後のリタイヤ生活がなんとも味気ないものになってしまいます。もう少し楽天的に考えてすごすほうが、同じ時間をすごすのに得だと思うのですが・・・。

  「団塊の世代」と呼ばれる人たちから「全共闘世代」までの人たちが次々定年を迎えたり定年が近づき、シニア世代を対象にした刊行物、ビジネスが次々と生まれています。我々の世代はそれより一世代前で学生時代は「60年安保」の時代でした。典型的なノンポリ、無関心派の私でも周りにつられてデモに参加したりしました。あの、樺美智子さんが国会前のデモで亡くなった日には私も大阪の御堂筋を難波から梅田までデモに参加して歩いていました。安保について真剣に考えていたわけではなく、かなり興味本位で学友とわいわいしゃべりながらデモをしていたいい加減な私でした。以前にも書きましたが、戦争の記憶を持つ最後の世代である自分としてなんとなく「戦争だけはもう二度と経験したくない」という気持ちは強かったのですが、そのことと安保闘争がはっきり結びついていたわけではありませんでした。でもその後の全共闘時代に比べると学生の行動はまともで、世間にもそれなりの共感が得られていたのだと思います。それに比べると集団リンチ殺人やハイジャックを繰り返した全共闘世代の学生運動はひどいものでした。いずれにしても遠い昔のことです。

 写真は札幌の北大植物園で写した花海棠(はなかいどう)です。中国で玄宗皇帝が楊貴妃をこの花に例えたことから美人を形容する花として用いられるようになったそうです。それにしても美しい色と形の花です。

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2007年2月19日 (月)

仙厓(せんがい)和尚の教訓

Sengai2 イセタンオンラインショッピング「I ONLINE」 残念ながら「歳を感じる」というのはいろいろな場面で否応なしに出くわすものです。自分では若いつもりでいてもある時に思わぬところで「歳を感じる」とかなりショックは大きくなります。以前に友人に江戸時代の禅僧「仙厓(せんがい)和尚」のことを教えてもらいました。仙厓和尚は「東の良寛、西の仙厓」と呼ばれるほどの学識と徳の高い僧侶だったそうですが大変味わいのある書と絵を残しておられます。

 写真はその中の一つで「老人六哥(歌)仙」と題した書と絵を絵葉書からコピーさせてもらいました。人が老いるとあらわれてくる身体的な変化や気質の変化を書き連ねてあるのですが、その最後の行に「達者自まんに人ハいやかる」と書かれています。リタイヤした私のような人たちが集まって話に花が咲くとよく出てくる話題が「健康」に関するものです。健康に問題がなく元気に暮らしているとついそのことを人に話したくなるものですが仙厓さんのこの「達者自慢を人は嫌がる」という言葉を思い浮かべて仲間に嫌われないようにしたいものです。

(2007.10.17追記)
先日、東京丸の内の出光美術館で「没後170年記念 仙厓・センガイ・SENGAI -禅画にあそぶ-」を見てきました。その墨絵のうまさ、添えられた文の洒脱さなど感服してしまいました。さらにその後、NHK「新日曜美術館」で「笑いに込めた仏の教え~仙厓~」 (2007.10.14)が放映され和尚の人柄などに触れ、ますます仙厓和尚が好きになりました。
 以下NHKのサイトから一部借用します。
「強風に吹かれる柳の木、そこには「気に入らぬ風もあろうに柳かな」との言葉が添えられている。ならぬ堪忍するが堪忍の処世訓を柳に例えた仙厓の代表作の一つである。にんまりと笑みを浮かべた蛙が一匹。その横には「坐禅して人が仏になるならば」との言葉が。坐禅するだけで仏になれるのなら蛙はとっくになっているという意味である。」 何ともユーモアがありしかも禅の教えを大衆に分からせようとする真摯な努力がよく分かります。

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2006年11月18日 (土)

「シネラマ」の思い出

Koyasan2パイオニアオンライン    中学生だった1953年頃にシネラマという新しい方式の映画が出現しました。日本では東京の帝国劇場と大阪のOS劇場の二箇所だけで上映されました。第一作は「これがシネラマだ」でした。シネラマは特殊なカメラを横に三台並べて撮った映像を同時にスクリーンに映し、観客の視野いっぱいに画像を見せるものです。人間の目は視野いっぱいの画像を見ると、それを立体画像だと錯覚する特性があり、それをうまく利用したのがこのシネラマです。
 上映が始まると大きなスクリーンの中央に小さく従来のサイズで映画の歴史の物語が写されます。そして突然、画面が一挙に広がり、"This is CINERAMA"のアナウンスとともにジェットコースター(正しくはローラーコースター)の最前列に積んだカメラの迫力ある映像(この頃まだ日本にはジェットコースターはなかったのですよ!)やグランドキャニオン上空を飛ぶ遊覧飛行の映像が目の前に現れました。そのときの驚きは今もはっきり網膜に焼き付いています。
 特にこのグランドキャニオンの場面は飛行機の旋回につれてからだが揺れるように感じ、しかも足元が空中に浮いているように思われ少し恐怖さえ感じました。でもその迫力ある立体映像には大感動しました。この場面でバックに美しいコーラスが流れていましたが、この曲がアメリカの第二の国歌とも呼ばれる"America the Beautiful"という曲だったことを後で知りました。  
  大変な努力の末完成された「シネラマ」でしたがしばらくすると「シネマスコープ」、「ビスタビジョン」、「トッドAO」などという1台のカメラで幅広画面を映す技術があらわれてやがて消え去ってしまいました。でもこれらの方式はその迫力ではとてもシネラマには及びませんでした。
 最近はIMAX(アイマックス)シアターを初めとする幾つかの方式の大型画面映画が各地で見られるようになりました。私も新宿や品川のIMAXを見ましたが、世の中が進んでしまったためか(歳のせいかもしれませんが)残念ながらあまり感動しませんでした。

 写真は先日訪れた高野山の宿坊の庭の紅葉です。宿坊で朝のお努めを経験し、おいしい精進料理を頂き、紅葉を見て心が洗われて帰って来ました。
  

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2006年10月21日 (土)

立体放送と立体映画

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   今のように音楽をステレオで簡単に聞くことが出来るようになったのはまだここ50年くらいのことです。1957年に本格的にステレオレコードが商品化されたようですが、もちろんオーディオセットは高価でしたし、なかなか一般人がステレオ音楽を楽しめる状況ではありませんでした。ところがラジオの放送局が二局で協力してそれぞれ右側、左側の音を担当し、リスナーは二台のラジオを並べて立体放送で聞くという画期的な試みが1950年代に始まりました。これとてラジオを二台並べるというのは戦後間もない当時そんなに簡単ではありませんでした。私が高校の終わり、あと数日で大学受験を控えた1959年(昭和34年)2月に関西の民放では初めての立体放送が始まり、それを初日に聞いたときの感動は今もはっきり覚えています。左右に二台並べたラジオを朝日放送(現在のABC放送)と毎日放送に合わせ、放送開始(確か夜の8時ごろだったと思います)を待ちました。オープニングのテーマ音楽は「マンボ」のリズムを普及させて当時日本でも大変人気のあったペレス・プラード楽団の「花火」でした。これまで聞いてきた(もちろん)モノラルの音楽に比べてなんと素晴らしい音だろうと驚きました。今でもこの音楽を聴くとその頃を思い出して懐かしい気がします。
 今や当たり前になってしまったステレオ音楽に比べて、残念ながら立体映画(今は3Dと呼びますね)はいまだにそれほど普及していませんが、昔から色々な方式の立体映画が試みられてきました。私が初めてこの立体映画というものを見たのは中学時代だと思いますが「フェザー河の襲撃」という西部劇(カラー)でした。映画館で配られた紙とセロファン?で出来た「偏光めがね」(だったそうです)をかけて鑑賞しました。当時、西部劇というのはインディアンが悪役で白人を襲ってくるというのがお決まりのストーリーでした。これは人種差別であるというので今ではこの種の西部劇のフィルムがほとんど残っていません。映画の中でインディアンが襲ってきてこちらに向かって矢を一斉に放つ場面では、矢が本当に画面を飛び出てこちらに飛んでくるように見えるので観客がいっせいに左右に体を倒してその矢を避けようとするのが面白かったのをよく覚えています。
 立体映画というと、私がこれまで見たすべての映画の中でも最も印象に残っているものの一つが「これがシネラマだ」という映画です。この話はまた次回にさせていただきます。

  写真はアメリカ、ニュージャージー州のある町で写したカエデの紅葉の写真です。カエデといっても日本のように小型ではなく手のひらくらいの大きな葉です。外国の紅葉は一般的に日本より赤が少なく黄色が主なように思います。

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2006年9月13日 (水)

飛行機のおはなし

Higannbana_1 iTunes Store(Japan)    ライト兄弟がはじめて有人飛行に成功してからまだ百年と少ししか経っていませんが、その間の航空機の発達は目を見張るものがあります。以前にハワード・ヒューズが作った巨大な水上飛行機「スプルース・グース」のお話を書きました。今回のスペイン旅行でもマドリッドとロンドンの空港でエアバス社が新しく開発した総二階建ての旅客機「エアバスA380」を見ることが出来ました。 最大853人の乗客を乗せることが出来るジャンボジェットより大きな飛行機はさすがに迫力満点でした。

 二階建て飛行機といえば戦後間もなく(昭和25年ごろ)太平洋を二階建ての旅客機が飛んでいたのをご存知でしょうか。ジャンボ機と同じボーイング社が、太平洋戦争で日本爆撃に活躍したB29爆撃機の胴体を上下に二機繋いで旅客機に改造した「ストラトクルーザー」という飛行機です。今見るとあまり格好が良いとは言えませんが子供の頃は大いにあこがれたものでした。今はもうその名前が消えてしまいましたが、当時はアメリカの航空会社「パン・アメリカン航空」が世界の空を席巻していました。太平洋にストラトクルーザーを運行していたのはもちろんこの会社でした。当時はプロペラ機ですからアメリカまで行くには途中二ヶ所で給油しなければなりませんでした。一つはウェーク島というグアム島のずっと東の小さな島、もう一つはホノルルです。こうやってニューヨークまで行こうとしますと丸3日間かかったそうです。14時間たらずでノンストップで直行できる現在では想像もできない長旅です。さぞ運賃も高かったことでしょう。
 
 昔の飛行機でもう一つ印象が深いのは英国のデハビランドという会社が世界で初めて作ったジェット旅客機「コメット」の繊細で優美な姿です。しかし残念ながら昭和30年ごろに金属疲労が原因と見られる事故での墜落が続き、さらには米国の新鋭機に押されてとうとう姿を消してしまいました。しかしその後のジェット機全盛時代のさきがけとして「コメット」の名前は永久に残ることでしょう。

飛行機に関して一つだけ忘れられない思い出があります。今から25年も前の話ですが、ロンドンからベルギーのブラッセルに行ったとき、乗った飛行機(確かサベナ航空の小型機~その後調べてみましたら、英国航空のトライデント機でした)の(全席かどうかは確かではありませんが大部分の)座席が後ろ向きに設置されていました。不思議な体験でしたが、時が経つにつれて「もしかすると勘違いでは?」と心配になり、その当時一緒に搭乗した先輩の方に聞いてみましたら「確かに間違いなく後ろ向きだった」と言ってくれましたので安心しました。離陸のときはおかしな感じでしたが、着陸のときは快適でした。同じような経験をお持ちの方があればぜひお聞かせ願いたいと思っています。


 写真はめずらしい真っ白な彼岸花です。埼玉県で写しました。

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2006年8月28日 (月)

スペインを旅行してきました(3)

Img_0191   スペイン南部、アンダルシア地方ではアルハンブラ宮殿やメスキータのようなイスラム統治時代の立派な遺産以外にも街の中にイスラム文化の影響と思われるものを多く目にします。バレンシアオレンジは有名ですがアンダルシア地方ではオレンジの木が街路樹としてはポピュラーですしレモン、ライムといった柑橘類やアーティチョークなど多くの野菜もイスラムの人たちが持ち込んだものなのだそうです。
 最近は残念ながらイスラムのイメージはあまり良くありませんがイベリア半島で勢力を持っていた頃は医学や数学がヨーロッパ諸国より高いレベルにあり、これらの学問の発展が後にイタリアで花開いたルネサンスの基礎となったとする有力な学説もあるようです。我々が今使っている数字の表記法がヨーロッパで発明されたローマ数字(Ⅰ,Ⅱ,Ⅴ,Ⅹ)ではなくアラビア数字になっているのはそのレベルの高さを表す一例です。ヨーロッパで使われていた高価な「羊皮紙」がイスラム文化の発明品の「紙」(本来は中国の発明ですが)に変わったことが文化の発展にどれだけ大きな画影響を与えたかは容易に想像できます。 
 しかしながら勢力を盛り返したヨーロッパ人はイスラム文化の痕跡を極力消し去ろうとしました。20世紀の長い期間スペインで軍事独裁政権を作ったフランコ将軍もその一人です。しかしそれでもあのような立派なイスラム建築が残り、イスラム文化の影響が庶民の生活に残っているのはうれしいことです。

 紫色の花をいっぱいにつける樹木「ジャカランダ」は私の一番好きな花です。幸運なことに満開のジャカランダにセビリアの町で出会いました。調べてみますとこの町のジャカランダは有名らしいです。見事な並木はバスの中から見ましたのでうまく写真に撮れませんでした。この写真はセビリアを流れるグアダルキビル川沿いのジャカランダです。

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2006年7月16日 (日)

スペインを旅行してきました(2)

Olive2MoMAオンラインストアジャパン   スペインの食べ物は欧米諸国に比べて我々日本人が好みそうなものが多いように思いました。「タパス」と呼ばれる小皿料理は一品一品の量が多すぎるアメリカなどに比べ親しみを感じますし味付けも(もちろん日本料理より濃厚ですが)おいしく感じました。オリーブ油が調味料(?)の定番ですがテーブルには必ずオリーブ油とビネガーが置かれていて野菜にたっぷりと振りかけて食べています。オリーブ油は動脈硬化を防ぐ健康食品ですし思ったよりあっさりしていておいしものです。南部のアンダルシア地方をバスで走っていますと限りなくオリーブ畑が続いています。
  マドリッドの街角で多く見かけるのは生ハムの専門店です。加工した豚のモモ肉(骨付き、原木と呼ぶようです)が店頭にたくさんぶら下がっていてそれをスライスして売っています。「ハモン(ハムのこと)イベリコ」や「ハモンセラーノなどが有名ですが値段もピンからキリまであります。イベリコ豚というのは主にどんぐりの実をたくさん食べさせて育てるそうです。また街角には「バル」(Bar)と呼ばれる居酒屋のような店が無数にありますが酒類もさることながら食べ物にかなり力を入れていてそれを目当てに客が集まるようです。日本にも最近バルがかなり増えてきているようです。

  写真はミハスからセビリアに向かう車中からのオリーブ畑の風景です。赤土とオリーブの緑のコントラストがいかにもスペインらしくて美しく感じました。

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2006年6月25日 (日)

50年前のサッカー国際試合観戦

Spain3  サッカーのワールドカップドイツ大会が国民の大きな関心を集めています。日本が残念ながら予選で敗退したことで、期待が大きかっただけにいろいろな批判も出ています。でも私の感想は「日本もよくここまで強くなったものだ」というものです。
 と言いますのは、今から50年と少し前に私が通っていた中学校が大変サッカーが盛んな学校だったものですから、サッカー部に属さない私でも雨の日を除くと毎日休み時間にはボールを追いかけておりました。当時日本のサッカーのレベルははるかに低かったのですがそれでもヨーロッパの強豪チームが幾つか来日し全日本選抜チームと対戦しました。私はその試合を二度も見る機会に恵まれたのです。
 海外のチームは一つはドイツからやってきた「オッフェンバッハ・キッカーズ」、もう一つはスウェーデンの「ユルゴールデン」というチームでした。調べてみますと「ユルゴールデン」は今も立派に存続して活躍しているようですし「オッフェンバッハ・キッカーズ」(当時この名前であったことは間違いありません)は今は「キッカーズ・オッフェンバッハ」という名前になっているようですがこちらもブンデスリーガーの二部で健在でした。
 当時は日本にプロチームはもちろんありませんから学生と社会人の混成で、記憶が少しあやふやですが、渡辺(めずらしくメガネをかけたゴールキーパーでした)、加納、加茂、鴇田(ときた)といった選手の名前を思い出します。
 スコアは思い出せませんが相手チームのパスがよくつながるのに対して日本はなかなかうまくつながりませんでした。もちろん50年という年月は大変長いのでその頃と比較してはいけないのでしょうが日本のサッカーも世界の一流のレベルにここまで近づいたのだという感慨を覚えながら今回のワールドカップを観戦をしました。

 写真はスペインアンダルシア地方コルドバのユダヤ人街です。せまい路地の白壁に花が無数に飾ってあり壁の色とのコントラストがとてもきれいでした。奥に見えるのはメスキータというイスラム教の聖堂のミナレットと呼ばれる尖塔です。

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2006年6月 7日 (水)

スペインを旅行してきました(1)

Spain4   最も行きたい国の一つだったスペインに行くことができました。スペインの歴史や風俗をインターネットや本で調べて楽しみにして訪れましたが期待以上に素晴らしい国でした。
  スペインはその地勢的な位置付けもあって長い間キリスト教とイスラム教勢力のせめぎ合いの場となってきました。古くはローマ帝国の支配下にあった時期を経てゲルマン民族である西ゴート族の時代の後、8世紀初頭にイスラムが占領して「イスラム朝全盛時代」が訪れました。グラナダやコルドバの宮殿やモスクはこの時代に作られました。しかし間もなく北方に追い詰められたキリスト教勢力が「国土回復運動」(レコンキスタ)を起こしついに13世紀には完全にイスラム勢力を追い出してしまいました。
  イスラム建築の壮麗さに初めて接し、その幾何学的な美しさには感動しました。特にその特徴がほぼ完全な形で残っている「アルハンブラ宮殿」の美しさには息をのみました。イスラム教はキリスト教と違って人間や動物の姿を建物に描いたり刻んだりすることを禁じているため草花の模様や幾何学模様を用いるようになったそうです。コルドバの「メスキータ」はイスラムが造った世界最大級のモスクを占領したキリスト教徒がその内部に礼拝堂を建設し複雑で壮麗な建築物となっていてこれも歴史の流れを感じさせる素晴らしいものでした。

  写真はセルバンテスの著書「ドンキホーテ」にも登場するラマンチャ地方コンスエグラの丘にある風車群。現在は風車としては使われていませんが赤土の大地に並ぶ風車を見ていますと何か違う時代にいるような気分になりました。

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2006年2月18日 (土)

映画百選

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  60歳を過ぎると映画をたったの千円というシニア料金で鑑賞できるという有難い制度があります。私も時々この制度の恩恵にあずかっています。
 でも歳のせいか昔の「名画」と言われる映画が妙に懐かしく思われます。ある映画好きの後輩に刺激されたこともあって古今の名画を(ほとんどビデオでの鑑賞ですが)見尽くしてやろうと思い立ったことがあります。
 インターネットで映画百選のリストを調べてみますと、権威のあるTime誌が選んだ"All time 100 movies"「懐かしの映画百選」、佐藤さんという方の「映画百選」などいくつかあります。これをもとにして自分なりの「名画百選」リストを作成し、近所のレンタルビデオショップからまだ見ていない作品をせっせと借りてきて何とか100名画を制覇しようと思っています。今は8割くらいを見ましたが最近一寸滞り気味です。
 私が好きな映画の中に「八十日間世界一周」、「ミスター・ロバーツ」、「リオ・ブラボー」等等がありますがどうも余りハイレベルの文芸作品とは縁遠いようです。

  写真は倉敷の川沿いの柳並木と、再現された古い町並みです。なかなか風情があります。昔はこの川の船着場から倉敷の工場で出来た織物を舟で出荷していたそうです。その工場は今はホテルになっています。

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2005年11月16日 (水)

阪神タイガースの思い出

goldenbells_   日本一は逃しましたが今年は阪神タイガースがリーグ優勝を遂げました。私が小学校低学年で野球を知り最初にファンになったのが阪神タイガースで、まだプロ野球が一リーグ制の最後の時代でした。それ以降55年以上もずっと阪神ファンを続けています。途中、あまりに弱くてプロ野球そのものに興味を失った時代もありましたが他のチームのファンになったことはありません。
  私の見てきた阪神タイガースでもっとも印象深かった選手は?と聞かれたら迷わず「三宅秀史三塁手」と答えます。ショート吉田選手との三遊間コンビは鉄壁でした。不幸にも練習中にボールを眼に受け野球生活を断念せざるを得なくなりましたがその華麗な守備は今も目に焼きついています。
  先日、永六輔さんがラジオの番組でこの三宅選手のことに触れ「平凡な三塁ゴロでもファインプレーのように見せるのが、同じ時代に巨人で活躍していた長嶋選手で、一方、どんな難しいゴロでもあたかも平凡なゴロをさばいたように見せるのが三宅選手だった」と話していましたがまさにその通りだったと思います。
  幸い今もお元気で暮らしておられるとのことでほっとした気持ちになりました。  

 写真はワシントンのホワイトハウス前に咲き誇るれんぎょう(Goldenbells)です。日本のものより花が大きいように思いました。

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2005年9月14日 (水)

戦争の記憶

Garuda  我々の世代(1940年生まれ)が戦争の記憶を有する最後の世代であるということは以前に書きました。私が終戦まで疎開もせずに住んでいたのは阪神間の都市です。
 昭和20年(満5歳前後)の春からは頻繁に空襲警報が発令され、そのたびに防空壕(コンクリートで出来たいわゆるヒューム管を半分土の中に埋めたもの)に家族で避難していました。近所には焼夷弾や1トン爆弾が落とされましたが幸い我が家は大きな被害には会いませんでした。でも1トン爆弾が畑に落ちて出来た大きなすり鉢状の穴は今もはっきり記憶にあります。夜は大阪方面の空が火の手でピンク色に染まっていました。
 広島に原爆が投下された同じ8月6に「阪神大空襲」があり家のすぐ近くの飛行機製造工場に無数の爆弾が投下されました。その爆撃音は頭から布団を二三枚被っていても鼓膜が破れそうな恐ろしい音でした。その後しばらくして黒い雨が降ってきたのを記憶しています。 近所のキリスト教会が臨時の被災者救護所になっていてたくさんの怪我人が荷車で運ばれてくるのを見ました。
 終戦の玉音放送はラジオで聞きましたがそれが何のことかはまるで分かりませんでした。近所の人々が集まって涙を流しながら立ち話をしていたのを不思議に思っていました。
 それから数日したある日の真っ青な夏空が妙にはっきりと記憶にあって、子供心に平和の有難さを感じたような気がしました。以上のようなことを思い出すたびに戦争を二度としてはいけない、戦争の恐ろしさを風化させてはいけないと強く思います。

 写真はヒンズー教の神鳥「ガルーダ」です。ジャカルタ(インドネシア)のホテルで写しました。人間の手足を持つ巨大な鳥です。ガルーダインドネシア航空の名前のもとになっています。このイメージが日本に伝わって天狗になったという説があります。

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2005年8月21日 (日)

日露戦争のこと

dog_wood_011 Sony Style(ソニースタイル)  今年2005年は日露戦争終戦100周年に当たります。私の愛読書の一つに司馬遼太郎著「坂の上の雲」(1~8巻、文春文庫他)があり、それを通して日露戦争に興味を持ちいろいろな本を読んでみました。「坂の上の雲」は2007年以降にNHKの大河ドラマとして放映が予定されているそうで今から楽しみにしているところです。
  当時ロシアというのは世界に冠たる大国で、まだ駆け出しの小国日本がロシアと戦争をして勝てるとは世界中の人が思っていませんでした。しかし帝政ロシアもあちこちでほころびが出始めていた時期でもあり、またいろいろな幸運にも恵まれて日本海海戦を経て日本が大国ロシアに勝つという番狂わせが起こりました。しかし永い目で見るとこの勝利は日本にとって良いことばかりではありませんでした。司馬遼太郎はその著書のあとがきで「戦後(日露戦争後)の日本はこの冷厳な相対関係(両国の力量の差など)を国民に教えようとせず、国民もそれを知ろうとはしなかった。むしろ勝利を絶対化し、日本軍の神秘的強さを信仰するようになり、その部分において民族的に痴呆化した。」と述べています。この後わずか40年で日本は太平洋戦争に突入することになったのです。

 追記:最近、同じく日露戦争を扱った吉村昭(残念ながら最近お亡くなりになりました)の「海の史劇」(新潮文庫)を読みました。「坂の上の雲」に勝るとも劣らない迫力を感じました。(2007.5)

  写真はピンクと白の花水木が揃って咲いているところを撮りました。めったにお目にかかれない珍しい風景です。

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2005年7月 6日 (水)

星の王子さまに会いに行きませんか

2002 あまり知られていませんが、2003年5月に鹿児島県内之浦から打ち上げられた小衛星探査ロケット「はやぶさ」は現在までに約3億7千万Kmというとてつもなく遠い距離を飛行し、「イトカワ」(日本のロケット開発に貢献した故糸川博士にちなんで命名されました)という名前の小惑星にあと15万Km という所まで接近しています(7月5日現在)。通常は1日30万Km も飛べるのですが既に目標に近づいているためエンジンを停止しており、まだ少し時間がかかりそうです。

 実はこの衛星の打ち上げのときに「星の王子さまに会いに行きませんか」というNPO日本衛星協会キャンペーンがあり、私はそれに応募したのです。世界中から応募した88万人の人々と一緒に私の名前がアルミプレートに刻まれ、小惑星「イトカワ」に落とされることになっているのです。ちょっとロマンチックな話だと思っているのですが・・・。

 小惑星というのは火星と木星の間に数多くある文字通り小さな惑星です。地球と同じように太陽の周りを回っています。現在確認されているものだけでも7万個以上あります。たまに、迷子になった小惑星が地球の近くにやってくることがあります。あまり近づきすぎますと地球に衝突する危険性があり、今からおよそ6,000万年前に地球に衝突した小惑星の影響で恐竜が絶滅してしまったのではないかという説があります。ロマンチックとばかりは言っておられないちょっと不気味な存在でもあります。

 はやぶさによって 「イトカワ」に無事投下されたターゲットマーカーの写真が公開されました。(2006.3.4)

 写真は錦帯橋(山口県岩国市)の桜です。人が大勢繰り出す前の早朝に写しました。
 

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2005年6月 1日 (水)

ハワイ・コールズとカーメン・ドラゴンの思い出

banian_veranda  アメリカンポップスがようやくポピュラーになりつつあった昭和30年代の前半、米軍の基地から放送されるFEN(Far East Network、現在の名称はAFN American Forces Network)放送の音楽番組は(解説は理解できなくても)貴重な存在でした。今回は今でも懐かしく思い出される二つの音楽番組について書いてみたいと思います。

 まず最初は「ウェブリー・エドワーズとハワイコールズ」(正式な番組名は"Hawaii Calls")です。「トリスを飲んでハワイに行こう」というキャッチコピーが有名になる以前の頃でまだハワイに遊びに行くことなど夢物語だったころ、毎週この「ウェブリー・エドワーズとハワイコールズ」という番組をラジオで聞いてすっかりハワイアン音楽のとりこになったことを覚えています。もう半世紀も前のことで記憶もあいまいですがワイキキの浜辺の波の音をバックにウェブリー・エドワーズの司会で彼の率いるハワイコールズというバンドが演奏していました。後にこの番組がワイキキのモアナ・サーフライダーホテルから中継されていたことを知りました。このホテルのワイキキビーチに面した中庭のバニアン・ツリー(ベンガル菩提樹)の大木の周りにある「ザ・バニアン・ベランダ」というガーデンレストランから実況中継されていたそうです。波の音もウェブリー・エドワーズ自らがマイクを海岸に持っていって挿入したそうです。数年前この場所を訪れて大変感激しました。この写真はうまく雰囲気が出ていませんが「ザ・バニアン・ベランダ」を写したものです。この番組で多くの有名なハワイアン音楽を聴くことが出来ました。今もハワイアン音楽を聴くとこの番組を思い出します。
(Youtubeでこの番組の冒頭のウェブリー・エドワーズのナレーションを見つけました。懐かしいです。)

最近になって、同じようにワイキキから中継生放送をしている番組の情報を友人から教えてもらいました。J-WAVE(関東地区、FM81.3MHz)で月曜から木曜まで午後1時15分頃から15分間放送されている"Colors of Hawaii"という番組です。ブログが毎日更新されていて楽しい番組です。


 もうひとつの思い出の番組はカーメン・ドラゴンが指揮するハリウッドボール・オーケストラの演奏によるライト・クラシック音楽の番組です。前述のハワイコールズの番組より後に始まりました。確か日曜日の午前の放送だったと記憶しています。当時ライト・クラシックではアーサー・フィードラー指揮のボストン・ポップス交響楽団が有名でしたがハリウッドボール交響楽団も素晴らしい演奏でした。今から20年位前に仕事でロスアンゼルスを訪れたときに現地の人にお願いしてハリウッドボールというハーフシェル型の円形野外劇場まで連れて行ってもらい当時の思い出に浸りました。

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2005年5月15日 (日)

「宗教」に関する雑感

Egonoki     先日、朝日新聞でアインシュタインの宗教観について次のような記事が載っていました。 「アインシュタインは『私は宗教心の深い不信心者です』、『聖書の教えが科学的事実と会わないことを知って宗教心が突然にさめた』、『宇宙的な宗教感情は科学的研究のもっとも強く高貴な動機である』といった言葉を残している。これは日本人にはよく分かる。満天の星を見上げるときに感じる神秘的なものと大きくは違わないのではないか。」

 このように不信心者、無神論者を自認するアインシュタインのレリーフがかの有名なマンハッタンにあるリバーサドチャーチの正面玄関に飾られているそうです。キリスト教のそこの深さを少し感じさせる話だと思います。

 私の愛読書「街道をゆく」の「肥前の諸街道」を読んで初めて知ったのですが、イエズス会が長崎を領地にして最初にやったことは領内の神社仏閣を全て焼き払うことであった、とのことです。これに秀吉が強く反発し後のキリシタン弾圧につながった様です。私はキリシタンの歴史には大いに興味を持っていますがこれまで日本がキリスト教を一方的に、不当に弾圧してきたと思っていましたがどうもそう簡単な話ではないようです。先ほどの話とは逆にキリスト教の心の狭さを見た思いです。
 
 宗教とはなかなか複雑なものだと改めて感じます。

 写真は白雲木(はくうんぼく)とかエゴノキと呼ばれる街路樹に咲く花です。5月に一斉に咲きます。英名は"Japanese Snow Bell"というのだそうです。

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2005年4月22日 (金)

スプルース・グース

1983_06spruce_gooth2  この写真に写っている巨大な飛行機(手前の見物人と比較してください)は1947年に完成した木製の水上飛行機で、名前を「スプルース・グース」といいます。1980年代には実物がロスアンゼルス郊外のロングビーチの大きな円形ドームの中に展示されているのを見ました。この飛行機を作ったのはハワード・ヒューズで今公開中の映画(私は見ようと思いつつ今現在見ていません)「アビエーター」のモデルになった大実業家です。

 この映画がハワード・ヒューズという人物をどのように描いているかは分かりませんが何しろかなり変った人だったようです。以下、私がこれまでに見聞きした情報で正しくないものも含まれているかもしれませんので悪しからずご了承ください。

 彼は飛行機ビジネスで大成功してからも飛行機の操縦が大好きで、(有名な実業家がこんなことを出来るのか一寸疑問に思いますが)時々、姿をくらましたかと思うと米国内の地方都市の小さな飛行機会社に就職してパイロットとして好きな飛行機の操縦をしていたと言われています。

 「スプルース・グース」は胴体に戦車が何台も積める、当時(第二次世界大戦中)としてはとてつもなく大きな飛行機でしたがその製作を米国政府に提案したときヒューズは「もし飛行に失敗したら自分の全財産(天文学的な金額です)を政府に寄贈することを約束するのでぜひやらせてほしい」と言ったとのことです。実際には完成したときには既に戦争は終っていましたが、彼はロングビーチの沖でテスト飛行をし海面からほんの少しの高さだけ飛んで見せ、政府との約束を果たしました。

 この飛行の様子は映像が残っていて私も見ましたが、なぜあのように低空飛行しかしなかったのか?あれ以上の高さには飛べなかったのか?と不思議に思っていました。この文章を書くためにインターネットで検索して面白い事実を知りました。本当は海面の滑走のみが当局から許可されていて空中に飛び上がることは禁止されていたのに、操縦を誤ったことにしてわずかに海面から飛び上がって政府への約束を果たしたというのです。本当に面白い話だと思いますが如何ですか?

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2005年4月 2日 (土)

NHK番組「名曲アルバム」

Rengetsutsuji  音楽を聴くのはそれだけで楽しいのですが、映像好きの私はこれに映像が加わると楽しさが倍増します。NHKがクラシック(ポップスや民謡も時々あります)を中心にした名曲を5分間に編曲してその曲にちなんだ映像をバックに、その曲にまつわるエピソードや解説を字幕で挿入した『名曲アルバム』、『名曲アルバム選』は私の最も愛する番組のひとつです。もうかれこれ20年近く前から好きな曲をビデオテープに撮りだめてストックし、リタイヤしたらゆっくり見て(聞いて)やろうと思ってきました。

 ところがテレビパソコンを手に入れ、世の中にDVDが普及してきますとビデオテープではランダムアクセスの点で飽き足らなくなりました。そこで新たに収録しなおすことにしました。番組のホームページで毎月月末に翌月の放送予定をチェックし好きな曲の録画を予約します。それをMPEG2ファイルの形でストックしておき、27曲たまりますと一枚のDVDに焼きます。

 ちょっと手間と時間がかかりますがこのようにして丹念に集めたDVDは今のところまだ5枚ですがこれからも続けて行きたいと思っています。最近は、まだ録画していない好きな曲が放送されることがどんどんと少なくなりDVD1枚分の曲目を集めるのにゆうに半年はかかってしまいます。しかしこれもまた楽しいことです。

 こうして作ったDVDは一曲が5分間と手ごろなのでいつでもちょっと見ることが出来て大変楽しい、リラックスした時間を過ごすことが出来ます。今の私の個人的な希望としてはアメリカの曲をもっと放映してほしいと思っています。でもクラシックの作曲家が圧倒的にヨーロッパの人なのでヨーロッパの映像が多いのはいたし方ないことでしょう。  
 
写真は満開のレンゲツツジで札幌の北海道大学植物園で写しました。

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2005年3月11日 (金)

ハイビジョンテレビ

Macau 私はテレビを見ることが大好きです。ドラマや映画、バラエティーなどはあまり見ませんがドキュメンタリーや旅番組はいつもチェックして見ています。退職で暇な時間が出来るのを機会に念願のハイビジョンテレビを購入しました。3年前だったので薄型TV がまだ高かったこともありますが性能を比較してCRT(ブラウン管)のハイビジョンテレビを購入しました。確かに大きくて重いのですがワイド画面TVを見ていた人にとってはこれまでとほとんど変りませんし画面の明るさなどは素晴らしいです。世の中には電機メーカーの宣伝に乗せられてハイビジョン=薄型TV と思っている人が多いようですね。価格もいまや10万円台の半ばになりました。(2007年現在:購入はまだ可能のようですが生産は中止された模様です)

 ハイビジョン画面を見ていますともうこれまでの普通のテレビは見る気がしないほど素晴らしいと思います。立花隆氏は辛口の評論をしますが彼がハイビジョンTVを見て「世の中に実際の景色よりもきれいな画面があることをはじめて知った」と書いていました。人間の目にとっては実物と同じ精細度の画像をプロのカメラマンが最高の季節に、最高の天候で、最高のアングルで撮っているのですから立花氏の言葉ももっともです。

 そろそろハイビジョン番組を高精細度のままディスクに録画する技術が世に出初めていますが、今現在普通に買える装置はD-VHSのビデオだけです。私が録画して永久保存している番組は「四大文明」、「宇宙~未知への大紀行」、「司馬遼太郎『アメリカ素描』を行く」、「ミュージカル~ブロードウェイの100年」等です。これはすべてNHK-hiの番組です。不祥事が続き視聴料支払拒否が増えているNHKですが番組の質はやはり群を抜いているように思います。先日もある人が「ニッポン放送、ライブドア、フジテレビ問題」で(フジテレビには失礼ですが)「フジテレビがもし消えてなくなっても別に困ることはないけれどNHKがどうかなると大変困る」といっていましたが私も同感です。(ご承知のようにその後「ブルーレイディスク」、「HD-DVD」という二方式のDVD録画方式が開発されましたが、全く画像の劣化、圧縮なしで録画できる方式は2007年現在、依然としてD-VHSだけのようです)
 これ以外にもNHK-hiでは「新シルクロード」、「新日曜美術館」など多くのすぐれた番組があります。NHK以外の番組ではBS-iの「世界遺産」、BS朝日の「花おりおり」や「五木寛之の百寺巡礼」などは素晴らしいと思います。皆さんもまだハイビジョンをお持ちでない方は一度電気店に行って普通のテレビとの画像の差をとくとごらん頂いたらいかがでしょうか。

  写真はマカオのコロニアル・バロック様式の教会の中でも最も美しいといわれる聖ドミニコ教会です。

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2005年3月 4日 (金)

戦争直後の記憶(続)

Kakunodate030  日本が米軍に占領されていた昭和26年9月までの間に米軍が撮影した写真を集めた本を読みました。記憶がよみがえって大変興味深い本でした。

 今回は前回の続きでまず当時の交通機関の記憶を書いてみたいと思います。進駐軍専用車両のことは前回書きましたが、その頃の新しい乗り物としてトロリーバスがありました。大阪市内には市電の代わりにたくさん走っていました。(調べてみましたらこれは以外に時代が後で、昭和28年からのことでした)長いポールを突き出して数両連結で走る姿を憶えています。 これは戦前からの名残だと思いますが、ある時(昭和25年頃?)淡路島に行きましたら(今はもうありませんが)洲本から福良までの鉄道を木炭車が引っ張って走っていました。バスも同じように木炭車がまだかなり走っていたようです。田舎道では牛車はよく見かけました。 今では信じられない話しですが、当時トラックやバス、乗用車が路上でエンストを起こしますと運転手がハンドルのような金属棒を持ち出してラジエーターの下にある穴にそれを差込んで力いっぱい回してエンジンを再始動している風景をよく見ました。セルモーターのようなものがなかったためだろうと思います。

 戦争直後は衛生状態が大変悪かったために発疹チフスが流行したりしました。これを媒介したのはシラミです。発疹チフスの予防のためにDDTという強力な殺虫剤(これは塩素系で、大分後になって発がん性があることが分かり製造が中止されました)を小学校の校庭で一人ずつ体中(衣服の下にまで)に吹きかけられていました。当時の人たちはずいぶん危険な薬品に触れていたわけです。

 戦後の食糧難は今考えるとひどいものでしたが、米軍もさすがに見かねて、食料の放出を何度か行ったようです。私のうちにも大きな缶詰(記憶では径が20cm、高さが2~30cmもあったように思います)が幾つか届きました。その中にコーンビーフがありました。これを初めて食べたとき本当に美味しいものだと思いました。肉なんてほとんど口に出来なかった時代ですから。それ以来、今になってもコーンビーフは私の好物のひとつです。

 これは多分昭和26年のサンフランシスコ講和条約条約締結以降の記憶だと思いますが(占領中は米軍が公表を禁止していたと思います)、「朝日グラフ」だったと記憶しているのですが、原爆の惨状を伝える写真集がはじめて発売されました。それを見たときの衝撃は大変なものでその写真の記憶は今でも強く心に残っています。つくづく戦争はやってはならないものだと子供心に思いました。

 今回の写真は秋田県角館の満開の枝垂桜です。武家屋敷と枝垂桜の組み合わせは素晴らしいと思いましたがご覧のような人の波でいい写真が撮れませんでした。別の時に新緑の鮮やかな季節にここを訪れましたが、静かな武家屋敷と目にしみる浅緑が素晴らしいコントラストでした。

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2005年2月25日 (金)

戦争直後の記憶

Fuji.img  私は昭和22年に6・3・3制教育が始まったときに小学校に入学し、最初からひらがな(それまではカタカナでした)で教育を受けました。同年齢の人に戦争の思い出を聞いてもあまり記憶が強くありません。田舎に住んでいたり疎開していた人が多く、戦争の強烈な場面に遭遇することが少なかったためではないかと思います。私はたまたま都会に住んでいてしかも終戦まで疎開を経験しませんでしたので歳の割に、断片的ではありますが激しい空襲爆撃の記憶、終戦の日の記憶、大型爆弾の投下跡を見た記憶、負傷者が運ばれて行く光景の記憶などがかなりはっきりあります。多分我々が戦争体験を記憶として有する最後の世代だろうと思います。

  今日はあまり耳にすることがない戦争直後の記憶を幾つか書いてみたいと思います。先ず「進駐軍」の話を書きます。私の記憶にある米軍の駐留兵は独特の船型の防止をかっこよくかぶりJeepに乗って走っていました。MPと呼ばれていました。時々街角で子供たちにチョコレートやチューインガムを配っていました。今もアメリカでリグレーのチューインガムを見るとあの頃を思い出すことがあります。電車には進駐軍とその家族だけの乗る専用車両がついていて白いカバーがかかった座席がいつもガラガラでした。

  次は「駐留軍による郵便物の検閲」についてです。父の仕事の関係もあってだと思いますが、我が家に来る手紙はよく一旦封が切られてそこに青い(記憶が不確かですが)シールが貼られていました。そこには英語と日本語が書かれていたと記憶しています。父からそれが進駐軍による検閲の痕だと教えてもらいました。日本人を統制するために思想的な背景などをチェックしていたようです。父は米国に友人が多かったためと思われます。

  これは少し後で昭和25年のことですが「サマータイム」が実施されました。夏の間(実際には春から初秋まで)時計を1時間早めるのです。夏は4時ごろに明るくなりますがサマータイムでは5時になります。一方夕暮れが1時間遅くなり、その結果当時不足していたエネルギーの節約に効果があったようです。でも何故か2年で中止になってしまいました。最近京都議定書に絡んでまたサマータイムを復活しようという動きがあるようですが私の記憶ではなかなかいいものでした。

 写真は修善寺にある「虹の郷」の満開の藤の花です。

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2005年2月20日 (日)

古い教会めぐり

2004_11new_york_  旅先で古い教会の建物を訪ねるのが趣味です。古寺や神社を訪ねるのも嫌いではありませんが少し暗い感じを受けます。一方キリスト教の教会、特にカソリックの教会は感動することが多いのです。やはり欧米の教会は建物が大きいせいか圧倒されます。比較的歴史の浅いアメリカでも教会を見る限り結構歴史を感じることが多いです。ましてやヨーロッパの歴史ある教会は素晴らしいと思います。昔ポルトガル領だったマカオの教会もきれいでした。私はまだあまりヨーロッパ旅行の回数が多くないのでこれからもっと多くの教会を訪ねることを楽しみにしています。
 
 残念ながらイスラムの有名なモスクを訪れた経験がないのですが、テレビで見ても素晴らしいと思います。特にイスラムが占領したキリスト教の教会、逆にキリスト教が占領したイスラムのモスクは独特で何とも言えない感動を覚えます。

 国内では函館のカソリック教会やロシア正教会、長崎の教会、軽井沢の教会が素晴らしいと思いました。ぜひ近いうちに島原や平戸の教会を訪ねてみたいと思っているところです。木造の建物とステンドグラスの組み合わせはなかなか味があります。

 キリスト教ではプロテスタントの方が開放的で、一方カソリックは色々しばりがあるという印象ですが、少なくても国内で見る限り逆にほとんどのカソリック教会が自由に内部を見学させてもらえるのに対してプロテスタントの教会(こちらはあまり素晴らしいという建物が少ないですが)はほとんど部外者は入れてもらえません。どうしてなのでしょうか。

 写真は私が最も好きな教会の一つのニューヨーク五番街のセント・パトリック教会の正面です。シンプルなリボンのクリスマスの装飾がしゃれています。ワシントン近郊のスーパーマーケットにこのリボンと同じ形のミニチュアが3ドルで売られていましたので買って帰りました。

 

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2005年2月13日 (日)

音楽について

christmas_tree_in_hawaii  今日は私の音楽の趣味について書いてみたいと思います。アメリカンポップス全盛の1950年代に中学、高校時代を過ごした私はラジオから流れるエルビス・プレスリー、パット・ブーン、ポール・アンカ、ニール・セダカ、ハリー・ベラフォンテなどの歌やマントヴァーニ・オーケストラ、パーシーフェース・オーケストラ、ビリー・ヴォーン楽団などを夢中で聞いていました。そのせいか今でもこの時代の音楽を聴くことが多く、現代のポップスはとても彼らには及ばないと信じている次第です。古いと言われるかもしれませんがメロディーや歌詞のよさは比較にならないと思うのですが・・・。

 当時は映画音楽がまた素晴らしかったと思います。「80日間世界一周」、「エデンの東」、「ムーンリバー」(これは少し時代が後ですが)、「ヘッドライト」、「黄金の腕」など今も聞き飽きることがありません。

 最近はこれらの好みの音楽をCDからパソコンのハードディスクに取り込んでパソコン操作中のBGMとして聞いています。その曲の中にはクラシックの小曲もいくつか入れてあります。特に好きな曲は「歌劇ローエングリーン序曲」、「序曲ローマの謝肉祭」、「フォーレのレクィエム入祭唱とキリエ」、「エグモント序曲」、「牧神の午後への前奏曲」等々です。

 ついでに、前にも書きましたがJAZZの好みもスタンダードが中心で、「Stella by starlight」、「Autumn in New York」、「Softly as in a morning sunrise」など、こちらは数えきれないくらい好きな曲があります。

 全部をひっくるめて今一番好きな曲はといわれると、あまりポピュラーではありませんが、パーシー・フェース・オーケストラの「シンシアのワルツ」です。いつ聞いても心が落ち着きます。パーシー・フェース自身は既に亡くなっていますが今もオーケストラは存続していて今年も春に日本にやってきます。以前の演奏会は残念ながらこの曲を演奏してくれませんでした。難しいのでしょうか?

 今回の写真はホノルルで見た南国のクリスマス・ツリーです。

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2005年2月 7日 (月)

愛読書について

Shibazakura  私は文学的素養が無いためかあまり「フィクション」を読むのが好きではありません。歴史に関する書物やドキュメンタリーのような書物を好んで読みます。歴史上の人物の本を過去にはよく読んだのですが、ある人に関する本を読んでその人物が好きになってもまた別の書物でその人物のマイナスの面に気付くことも多くありました。だから最近はあまり、ある人物にスポットを当てた書物は読まないようにしています。

 その中にあって二人だけマイナス面を目にすることのない尊敬する歴史上の人物があります。一人は「上杉鷹山」です。ケネディ大統領が日本人記者に「あなたの尊敬する日本の政治家は?」と聞かれて「Yozan Uesugi」と答えて日本人記者が誰のことか分からなかったそうです。江戸時代に米沢藩の藩政建て直しに成功した名藩主です。この人の藩政に対する考え方は現代の民主主義そのもので、彼の書いた「伝国の辞」の思想はあの有名なリンカーン大統領の「人民の人民による人民のための政治」というゲティスバーグ演説と同じで、しかもその数十年前に書かれています。封建制度全盛の江戸時代にこのような考え方の政治家が日本にいたというのは大きな驚きです。

 もう一人の人物は「山田方谷」という人です。あまり知られていない人物ですがやはり岡山県備中松山藩の再建を果たした人です。明治新政府の初代大蔵大臣への就任を断わった人物として知られています。

 旅行と歴史が好きな私にとって司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズ(朝日文庫)は最高の書物です。最近新しく「週刊百科 街道をゆく」が発売されたのはうれしいことです。

写真は満開の埼玉県秩父、羊山の芝桜(パノラマ写真)です。

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2005年2月 1日 (火)

宇宙の不思議

tomita_farm 都会ではもう「天の川」を見ることがほとんど出来なくなりました。私は都会育ちですがそれでも小さい頃(昭和30年前半)にはまだはっきりと「天の川」を夜空に見ることが出来ました。たまに人里はなれた場所で夜空を見ると「こんなにたくさんの星が輝いているのか」と驚くことがあります。星空を眺めていると宇宙の壮大さに比べて人間が如何に小さな存在であるかを思い知らされます。

 ある頃から「宇宙」ということをもっと知りたくなって入門書を手当たり次第に読むようになりました。「宇宙の大きさ」、「宇宙の始まり」、「宇宙の将来」、から始まって「相対性理論」や「量子力学」の基礎の基礎も、主にPHP文庫の手軽な文庫本(でも著者は一流です)で読みあさりました。その結果益々宇宙や宇宙物理の世界が面白くなってきました。
 
*宇宙は150億年位前に本当に小さな極微の世界から「ビッグバン」と呼ばれる大爆発によって始まった。
*宇宙は今も猛烈なスピードで膨張を続けている。
*この宇宙が遠い将来に至るまでこのまま膨張を続けるのか、ある時点から収縮に向かいついには元の一点に収 斂するのかはi今のところ分かっていない。
*宇宙には何もかも猛烈なスピードで吸い込んでしまい、光の速度(宇宙にこれ以上速いものは存在できない)でも逃れることができない「ブラックホール」が存在すことが確かになっている。
*宇宙には1cm角の物質の重さが何と10億トン(普通のビル数十万棟分の重さ)もあるようなすごい比重の星が存在する。
等等、にわかには信じられないような本当の話がたくさんあります。 皆さんも一度読んでみませんか?

写真はちょうど満開の時に訪れた富良野のラベンダー畑、富田ファームです。手前に咲く黄色い花は「えぞかんぞう」です。

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2005年1月26日 (水)

花の美しさ

2003_12Guam 若い頃は「花」というものにそんなに関心がありませんでした。でもある年齢から見たり写真を撮ったりすることが大好きになりました。
 聖書に「栄華をきわめたソロモン(古代イスラエルの大王)でさえ、野の花の一つ ほどにも着飾ってはいなかった。」(マタイの福音書6章29節)と書かれています。その通りだとつくづく思います。見れば見るほど美しい花々。国内、国外の美しい花を訪ねその写真を集めてみたいと思っています。
 ブラジル原産の花で「ジャカランダ」というのをご存知でしょうか。桜と同じように(かなりの大木になりますが)木いっぱいに紫色の花が咲きます。私は二、三度ロスアンゼルスで見ていますが一番好きな花の一つです。和名が「桐もどき」というのは一寸ジャカランダに失礼ではないかと思います。10月に10万本ともいわれるジャカランダで埋め尽くされる街があります。オーストラリアのグラフトンという街です。ぜひ一度訪れてみたいと憧れています。南アフリカにも同じようにジャカランダにあふれるプレトリアという街があります。

 この写真はGuamで撮った「プルメリア」の花です。この花も私の大好きな花のひとつです。その香りが素晴らしいです。肉厚の花びらの可愛い花です。
 その他私の好きな花は「はなみずき(特にピンクのもの)」「ブーゲンビリア」「ルピナス」等々ですが聖書の言葉どおり道ばたの名も無い花もそれぞれに個性的で美しいと思います。

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2005年1月23日 (日)

客船の話

1998symphon 最近はクルージングブームで日本人もずいぶん多くの方が世界各地にクルージングに出かけるようになりました。
私は客船に乗って旅をするのではなくて客船を見るのが趣味です。「船が好きだ」と言うとほとんどの人が投げかけてくる質問は「クルージングですか?」だとか「帆船ですか?」というものです。そうではありません。港に入港する豪華客船を見に出かけることなのです。
 
 客船が好きになったきっかけは昭和20年代半ば、まだ渡航が飛行機ではなく船だった時代に太平洋航路で活躍していた米国”プレジデントライン”の「プレジデント・クリーブランド」や「プレジデント・ウィルソン」号などを見たことです。これらの船は今なら小型と言っていい2万トンクラスの貨客船でしたが特にクリーブランド号の白い船体は子供だった私に強い印象を与えました。
 
 この歳になっても横浜港晴海ふ頭に入港する客船をインターネットでチェックしてデジカメ片手にせっせと見物に出かけます。最近は飛鳥、にっぽん丸、パシフィックビーナスといった日本のクルーズ船以外にはめったに大型の客船が入港しないのは大変残念です。
 
 世界では客船がどんどん大型化し15万トンというものまで出てくるようになりました。このような大型船は乗る人はともかく、私のように見るものには大きいだけで優美さが全く感じられません。
 
 写真は数年前に横浜港に入港したときの「クリスタル・ハーモニー」(46,800t)です。私はこの船の姿が一番好きです。この船は姉妹船の「クリスタル・シンフォニー」と共にバハマ船籍ですが日本郵船の所有ですから日本の船といえます。しかしめったに日本には戻らず主にカリブ海などで活躍しています。

 この船は2006年2月に「飛鳥Ⅱ」に生まれ変わり日本国籍となりわが国最大の客船として再デビューしました。(2006.2.23)
  

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2005年1月22日 (土)

旅の思い出

2004_03Washington080 仕事をリタイヤしてようやくゆっくりと旅行を楽しめるようになりました。これまでは仕事で色々な国に行きましたが余りゆっくりと景色を楽しむ余裕はありませんでした。しかしその中にあって忘れることの出来ない素晴らしい光景を目にしたことがあります。
 私は海外に行ってもあまり時差ぼけを感じたことがありません。私流の時差ぼけ防止方法は「行き帰りの飛行機の中で極力眠らないようにする」ということです。目的地に着いたその日は少し睡魔と闘うことを余儀なくされますが、その日はほとんどの場合仕事がありませんので何とかなります。その夜はぐっすり眠れ途中で目がさめることはまずありません。翌日すっきりと目覚めて完全に時差ぼけを克服することが出来ます。他のお客さんがほとんど皆眠っているときに起きているわけですからフライトアテンダントがサービスにこれ努めてくれるのも余禄です。
 ある時(季節ははっきり覚えていませんが秋だったと思います)成田からニューヨーク行きの直行便に乗りました。左側の窓際の席で何時ものように眠らずに本を読んだり音楽を聴いたりして至福の時を過ごしていました。ちょうどアンカレッジやジュノーの上空を飛行している頃でした。フライトアテンダントのお嬢さんがやってきて「お客様、今窓の外にオーロラがご覧になれますよ」と耳打ちしてくれました。急いでウィンドシェードを上げて真っ暗闇の外を見ますとやや斜め下方に少し青みがかった白色帯状のオーロラがはっきり見えました。私はそれまでオーロラというものはゆっくりと動くものだとばっかり思っておりましたが実物のオーロラは思ったより早くゆらゆらとゆれていました。しばらくは時の経つのを忘れて美しいオーロラに見入っておりましたがやがて次第に色が薄くなり見えなくなりました。その間どれくらいの時間が経ったのか後で思い出そうと思っても思い出せませんでした。暖かく快適な機内からこんなにきれいなオーロラを見ることが出来た幸せをしばらくは噛み締めておりました。
 自然の雄大さを実感する場面は、その後プライベートに訪れたワイキキで見た、夕日が大海原に静かに沈む光景があり、思わず周りの人につられて拍手をしてしまいましたがあのオーロラにはちょっとかなわないなと思いました。

 写真は昨年春、マグノリアの花が満開のワシントン国会議事堂です。ポトマック河畔の桜も満開でしたが思ったより桜の木が少なかったです。

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2005年1月12日 (水)

映画「ターミナル」を見ました

2004_11_2912_07new_york_baltimore_005 現役時代は見たい映画があってもなかなか見る時間がありませんでしたが、リタイヤして時間はたっぷりあるし60歳を超えてシニア割引(\1,000 自己申告で原則として身分証明は不要)は使えるし、という訳でよく映画を見るようになりました。
 今日は「ターミナル」を見てきました。スティーブン・スピルバーグらしい映画でしたがトム・ハンクスがいい演技をしていました。旅行者(トム・ハンクス)がNY・JFK空港に着いてみると母国がクーデターで崩壊してしまい無国籍になって入国が出来なくなり、延々何ヶ月も空港ターミナルで暮らすようになるという話です。亡くなったお父さんが大のJAZZファンで多くのプレーヤーからサインをもらっているのですが一人だけ貰うことが出来なかったプレーヤーのサインを貰うために息子がやって来たという設定もJAZZの好きな私には面白かったです。
 1ヶ月前に旅行でJFKを利用したし、トム・ハンクスの乗って来たUnited Airlineの着くターミナル7を通ったのですが撮影は別のターミナル(多分ターミナル4)を使ったようでした。ちょっと残念でした。

 写真はNYサックスフィフスアベニューの壁面のクリスマスデコレーション2004年版です。

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